宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

東京宝塚劇場の再開に寄せて 小林一三が日比谷に描いた理想

東京宝塚劇場再開、おめでとうございます。


星組は1933年(昭和9年)、東京宝塚劇場の開場に合わせて創設されたそうです。
(初代トップは春日野八千代先生!)


そして休演明けの再開第1弾が星組、というのは運命を感じますね。


本当に、皆が健康で舞台を務められますように。


小林一三が日比谷に描いた理想


ところで、管理人は宝塚ファンになる前から「実業家、小林一三」のファンでございまして(笑)


小林一三氏は、今なお日本ビジネス史のレジェンドであり、アイドルだと思います。


その証拠に、21世紀になっても、毎年なにかしら彼に関連した書籍が出版されている。


つまり今でも現代人に響く「売れる」コンテンツである。


宝塚と東宝は、彼が生涯に成した事業の20%ほどに過ぎません。


阪急電鉄、阪急デパート、沿線宅地開発と住宅ローン制度、東京電力、昭和電工、日本初のビジネスホテルである第一ホテル、阪急ブレーブス、梅田コマ劇場(今の梅芸)etc.


「より良いものをより安く」だけにとどまらず、「顧客の創造」「新しい価値の創造」という、現代でいう「イノベーション」を次々に成し遂げた小林一三氏。


東京宝塚劇場の再開にあたり、一三氏が東京宝塚劇場と日比谷の劇場街に託した思いを紹介させていただきます。

〔注: 菊 五郎 一座 の よう な〕 此種 の 芝居 は 高い 料金 を 取る といふ のが 松竹 の 方針 で ある と 思ふ。


 況 ん や 歌舞伎座 に し ても 弐 千 弐 百人、 其 以外 の 劇場 は 大体 千 五六 百人 から 弐 千人 迄 の 収容 力 しか ない ので ある から、 勢 ひ、特別 の 人達 が 高い 料金 を 支払っ て 見る 芝居、 即ち 特種 階級 の 芝居 の 存在、 


それ に対する 国民 一般 に 開放 さ れ たる 芝居 を 興行 しよ う と いふ のが 東宝 の 目的 で ある。


鹿島茂. 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三 (Kindle の位置No.3535-3540). Chuokoron-shinsha,Inc.. Kindle 版.


東京宝塚劇場は今は客席数 2,069席ですが、当時(昭和9年)は客席数 2,778席ありました。


当時の歌舞伎座が1,200席だったので、倍以上もある巨大劇場でした。


そのころには歌舞伎はもう新作主義をやめ、通のお金持ちの客を相手に、名優が古典を演じて高い料金を取る、特権階級の社交場的な空気があったのですが、


一三氏は当時の繁華街の浅草ではなく、日比谷の勤め人が仕事帰りに観劇や映画を楽しむ場として、日比谷の劇場街を創出しました。


歌舞伎座の倍の客席をつくれば、料金を半分にして大衆に良質な娯楽を提供できる、という精神ですね。(今でも歌舞伎座の一等席は18,000円、東京宝塚劇場S席は9,500円)


小林 は、 ひとつ の 劇場 を 建てる のでは なく、 新しい「 劇場 街」 を 作る という 点 で 革命的 だっ た。


丸の内 の オフィス 街、 霞が関 の 官庁街 にも 近い 日比谷 地域 で あれ ば、 勤め人 が 仕事 を 終え てから 行き やすい という 地の利 が ある。 鉄道 を 使え ば 郊外 からも 客 を 呼べる。


 帝劇 が うまく いっ て い ない のは、 周囲 に 劇場 が ない から だ。 複数 の 劇場 を 一気に 建て て「 劇場 街」 を 作れ ば、 相乗効果 と なる。  


 点 と 点 を 結ぶ「 線」 でしか なかっ た 鉄道 事業 に、 その 線 の 周辺 を「 面」 として 宅地 開発 し、 さらに 都心 部 の ターミナル には 百貨店、 郊外 の 終点 には 行楽地 を 作る という 新手 法 で 成功 し た 小林 だからこそ、 劇場 経営 において も、 劇場 と 劇場 を 結ん で 線 として、 その 線 で 囲い 込ん だ 面 を 劇場 街 に する という 発想 を 抱け た ので あろ う。


中川 右介. 松竹と東宝~興行をビジネスにした男たち~ (光文社新書) (Kindle の位置No.3687-3693). 光文社.