宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

華世京はスター!だけど『ステップ・バイ・ミー』感想

こんちゃん



(千秋楽の配信後ですので、ネタバレ感想です)


雪組の御曹司・華世京のバウホール初主演作『ステップ・バイ・ミー』を配信で視聴しました。


アメリカの名家の御曹司ユージン(華世)は、名門大学に入学し、年上の女性リリー(星沢)に惹かれてゆく。


ユージンは俳優になるという夢に挑戦するが、リリーには別れ話を切り出されてしまう。


10年後、若手俳優となったユージンは、自分の学生時代の恋をモデルにしたような青春映画の撮影に挑む。


彼の前に突然現れた女性エイミー(星沢)は、なぜか亡くなったはずのリリーに生き写しで...



若者の将来への不安、いちずな恋、恋のライバル、兄弟や親との対立と和解。


シネコンに行くと、派手な宣伝はされていないけれど常時1本くらいは上映されている、駆けだしの若手俳優主演のデート向け映画みたいな話でした。


まあ、若手のバウ初主演なんだから、こんな話でいいとは思います。


華世京は、既に真ん中にいて収まりのいい安定感があり、


過去の回想シーンや現在の撮影シーンでの年下感と、撮影の合間の、新人のヒロインをリードする先輩感の演じ分けも達者。歌もダンスも達者。


こりゃあトップの器ですわ。


ヒロインの星沢ありさも、亡くなった年上の恋人リリーと、あったはずの記憶を喪失したり、覚えの無い記憶が蘇ったりと、不安定でふわふわしたエイミーを確かに演じていました。


ただ、ネタバレになりますが、


現在のエイミーは、10年前に亡くなったリリーのクローンだった、


というオチはやっぱり腑におちません。


クローン人間は、10年で20歳に成長するの?


作中では、クローンを作成したリリー(とエイミー)の父親が


「クローンは、大元の細胞を採取した時の、人間の歳を超えられない」


(つまり20歳の人の細胞を元にクローンを作成した場合、クローンは20歳以上は決して生きられない)


と言うのですが、じゃあエイミーはクローンとして生まれて10年だから、あと10年は生きられる可能性があるのでは?


リリーはエイミーとは世代が違い、成長過程も違うはずなのに、なぜエイミーの交友関係の記憶があるのか?


世界各国で禁止されている人間のクローンを誕生させて、関わった科学者は倫理的におとがめなしでいいのか?「罪と罰」って言葉だけ?


そもそも「クローン人間もの」って、20年位前はそこそこ作られていましたが、だいたい


「クローン人間は、富裕層に臓器を提供するために、人間世界とは隔離して育てられている」



映画『わたしを離さないで』予告編


「臓器取り用」に育成されたクローン人間にも、自我や恋愛感情はある


という展開が多かったです。



その後iPS細胞の実現や、アンドロイドと人工知能を駆使して故人の人格を再現する研究が進みました。



動く「iPS心臓」 ミャク打つ様子を初公開 大阪・関西万博の目玉




PV3「World with Androids」|PV3「アンドロイドたちとの世界編」



【生成AI】故人をAIで再現する技術〜デジタルヒューマンの可能性と課題とは〜


万博の一般向けの展示を見た後で『ステップ・バイ・ミー』のクローン人間観を見ると、なんだか四半世紀前に流行った話の再演に思えて、妙に古臭いのです。


(作品解説では、舞台は2000年代はじめのロサンゼルスの話となっていましたが)


もういっそ、エイミーは幼少期に養子に出されたリリーの妹だった、くらいのオチのほうが、古典的ネタすぎてすっきりしたかも。

雪組御園座『パリのアメリカ人』感想

こんちゃん



雪組御園座公演 『An American in Paris(パリのアメリカ人)』 を配信で視聴しました。


第2次大戦後のパリで、アメリカ人の資本家(マイロ:妃華)が出資して、フランス人バレリーナ(リズ:音彩)を抜粋して、アメリカ人の舞台美術(ジェリー:朝美)と音楽(アダム:縣)のスタッフで


「パリのアメリカ人」というバレエ作品を制作する。


ヒロインをめぐる恋模様に、フランス貴族の歌手志望の息子(アンリ:瀬央)がからむ。



というお話です。


日本で日本人が見ると文化の距離感がよくわかりませんが、これを1945年の日本に置き換えると


「戦後まもない京都で、アメリカ人の金持ちが、米兵と祇園の舞妓の恋物語のジャズ・ミュージカルを、アメリカ人の映画監督で制作させる」


ような話だと思うんです。


そりゃあ、舞妓さんや花柳界も、生活のため、金のためとあっても、占領者アメリカへの複雑な思いとか、祇園の芸者がジャズで踊るなんて!とか、色々な思いがあるでしょう。


米兵と芸者の関係が「当人同士、恋愛感情があればいいじゃない」


だけではすまないものがあったと思います。


 『An American in Paris(パリのアメリカ人)』 ストーリー・音楽とも、作品のタイトルどおり


「現地では「異邦人」である、アメリカ人から見たパリ」


であることを貫いていることが作品に深みを与えていると思います。



ニューヨーク育ちのユダヤ系作曲家であるガーシュウィンがパリの街を歩き、「なんとなくパリっぽく」ではなくて、


「アメリカ人が感じたパリ」を音符でスケッチしてオーケストラで描いた、1928年のパリの空気。


ガーシュウィンは1937年に亡くなっており、その後1951年に彼の音楽を元にアメリカでジーン・ケリー主演でミュージカル化されました。


(ゆえに、ストーリーテラーはアメリカ人の音楽家アダムとなっている)



An American in Paris (1951) - trailer


この1951年の映画版は、むかーし見たことがあるのですが、ショースター・ジーン・ケリーのボーイ・ミーツ・ガールの陽気なミュージカルという感じで、あまり重い話だった記憶がありません。


戦後数年しか経っていないわけで、映画館の観客は皆、戦争の惨禍は骨の髄まで沁みていて、甘いラブストーリーと陽気なジャズに飢えていた時代ですからね。


今回宝塚で上演されたバージョンは、1951年公開のミュージカル映画をもとに、2014年にパリでミュージカル化されたものだそうです。


戦後70年たって、戦後間もない時代の作品を再構築するにあたり、ストーリーはスター映画から群像劇の色合いが濃くなりました。


登場人物たちは


アメリカとフランス、


ユダヤ教徒とキリスト教徒、


金を出す国と、出される国


ナチス・ドイツから解放した国と、ナチス・ドイツを止めきれなかった国


武器で戦った者 武器以外で戦った者


現代のポピュラー音楽の潮流(ジャズ以降)を作った国と、クラシックの時代以降「音楽の歴史」で名前を見なくなった国


様々な属性の個人の対立は、背景の文化や歴史関係の対立でもある。


主人公のジェリーは戦勝国のアメリカの元兵士で、彼も戦争で傷を抱えていて、異邦人で、フランスという異国で会う人たちはさまざまな事情をかかえていて、


近くて遠い距離感を踏み込みあぐねて、フタをしたままの本当の想いを探して。


パリのアメリカ人だから、言えない言葉があるかもしれない。


パリのアメリカ人だから、言えた言葉があるかもしれない。


これは1945年の遠い昔の反戦ものではなくて、令和の時代にも通じる自分探しの旅でもある。


見ごたえがありました。

『悪魔城ドラキュラ』新人公演 感想

こんちゃん


『悪魔城ドラキュラ』新人公演を拝見しました。



正直、エンターテインメントとして楽しむには、技量がまだ発展途上の演者が多かった新人公演でした。


主人公とヒロインが、どこで恋愛スイッチが入ったのかよくわからないとか...まあそこは、


新人公演は勉強公演ですから。



新人公演の楽しみって、技量に酔いにくい分、見えるものもあると思います。


カンヌ映画祭受賞作やミシュラン掲載レストランの、普遍的な洗練よりも、


海外展開なんて考えていないローカルドラマやB級グルメに濃厚に漂う「文化の根っこ」みたいなものに気づくことにあると思うんです。


本公演は、


『ベルサイユのばら』初演から50年、2.5次元舞台の老舗劇団タカラヅカの底力を見よ!


原作ゲームファンの皆さんにも胸をはっておすすめできる、高クオリティエンターテインメントでした。



新人公演では、「西洋の、しかも東欧の辺境のヴァンパイア伝説」が、日本でエンタメ化されると、


「100万回生きたねこ」ならぬ、


「400年で80回親を殺す宿命を負ったヴァンパイアの哀しみ」


という、東アジアの「輪廻転生」「因果は巡る」といった価値観がにじみ出てくるんですね。


「悪魔城ドラキュラ」って、親が5年に1回は、世界征服を企てて人間世界を破滅させようとするんですよ。


5年に1回は、親の心臓に剣を突き立てなきゃいけないんですよ。


100万年生きたら、20万回は親を殺す宿命を負っているんですよ。


親が酔って暴れて警察の厄介になって、子どもが署に身元引き受けに行くどころじゃあないんですよ。


そりゃあ、いきなり押しかけて来たヴァンパイア推し活娘にかまっている心の余裕も無いでしょうよ、という意味ではリアリティはありました。


まあここは宝塚なので、客をいらんことを考えずに酔わせる場所なので、


客にいらんことを考える余裕を与えないジェンヌになれるよう、皆精進してください!

『阿修羅城の瞳』正直感想

こんちゃん


星組『阿修羅城の瞳』東京宝塚劇場千秋楽公演の配信を視聴しました。


管理人は、星組新人公演での『阿修羅城の瞳』も視聴しております。


タイトルの「阿修羅」とは、インド神話に登場する、修羅の世界に転生を繰り返し、ライバルの帝釈天と戦うことを永遠にやめられない鬼神のこと。


主役の病葉出門(わくらばいずも)の歌唱技術やアクションについては、本公演が圧巻なのですが、


『阿修羅城の瞳』というタイトルの意味は、新人公演のほうが伝わりやすかったと思います。


礼真琴演じる病葉出門は、例えるなら昭和のチャンバラ時代劇の風味があって、桃太郎侍風に言えば


「姓は鬼退治、名はわくらば」


夏の盛りの青葉の中で、1枚だけぞっとするほど赤く染まり、病に感染した兆候を示す葉っぱのような、何かに憑依された怖さがある。



本作品では、ヒロイン「闇のつばき」の正体は、阿修羅。


人間に倒されたのち、転生して童女になり、成人して愛の修羅を知ると阿修羅に転生する。


この地獄から極楽、また地獄の奈落の底へ突き落されて転生する、感情の振り幅のダイナミズムが、芝居のキモだと思うのです。




礼真琴演じる病葉出門は、阿修羅と同類の、戦いの神帝釈天。


どちらも生まれ変わり巡りあっては、愛の手練手管を武器にして、戦いの修羅を永劫に繰り返しているのでしょう(闇のつばき役の暁千星も、阿修羅に転生後は闘争心の塊で、愛の修羅はどこへやら)



新人公演で病葉出門を演じた稀惺かずとは、帝釈天らしさは希薄で、あくまで人間らしい恋愛感情や憐みの心の持ち主。


礼真琴の病葉出門は物語のエンディングの後も、鬼狩りを続けていそう。稀惺かずとの病葉出門は、もう生涯鬼は狩らないのだろうと感じる。


闇のつばきを演じる詩ちづるも、本職の娘役なこともあって、二人に恋が芽生え、過去を知り、


「私が愛した男は、私を殺した男だった」


と知った時の衝撃が生み出した感情のほとばしりが、修羅の炎で火あぶりにされた「地獄変」の残酷な美しさがあって印象的でした。

会チケ制度改革で役付き競争激化?

こんちゃん




9月の宙組公演からはトップスターのファンクラブにチケットを集約するのをやめ、各劇団員が自分のファンクラブや自分自身が必要な枚数を直接販売窓口に申し込むようにする。


劇団員には4月、村上氏から「チケットは無理して買うものでも、無理してさばくものでもない」と説明したという。

興業の世界にノルマ制度があり、「チケットをたくさん捌ける生徒に、良い役を振る」というのも、まあ理屈はわかります。


実際、これまでを振り返って、際立ったルックスも、何かひとつ秀でた芸もあるふうでないのに、いいお役を独占する路線っていなかったように思いますし、


魅力ある生徒、実力のある生徒には、それなりにファンが付くものでしょう。


会チケ制度を改革し、トップスターのファンクラブが他の組子のファンクラブへの配分を決めていたのをやめるとのことです。


ちょっとびっくりしたのですが、


これまで、劇団は、どの生徒がどれくらい数値(サバキのルート)を持っているのか、という大切なデータについて、


トップスターのファンクラブの幹部から、各ジェンヌへのチケット配分について事後報告を受けていただけだったの?


(トップスターのファンクラブが、劇団からのチケットを集約していたのは、「〇〇さん、最近ファンクラブの会員数が伸びていないけど、役付きが落ちたら可哀そう」といった配慮もあったのかもしれないですが。)


この改革で、劇団としては各劇団員のチケット捌きの枚数をダイレクトに把握できるようになり、役付きも公演ごとに変動が激しくなる可能性がある。


特に路線スターのファンは、トップ会の御意向に関係なくチケットを申し込めるようになり、「無理して買って、無理してさばく」傾向に拍車がかかるのか?


コアなファンとライトファンの違いは、


「無理したい!無理させてください!」



「無理したくない」


の違いですからねえ。