宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

ワンス デボラは「ドナドナ」を歌っていた?ダビデの星の下に

本当は怖いドナドナ

ハリウッドで夢破れたデボラは、ブロードウェイへ戻ったのでしょうか。


1938年、ニューヨークであるミュージカルが上演されました。よく知られた挿入歌があります。デボラはフィクションの人物ですが、この歌を歌っていたかもしれません。


ある晴れた昼下がり 市場へ続く道 

荷馬車がごとごと 子牛を乗せていく

可愛い子牛 売られていくよ 悲しげな瞳で 見ているよ


Joan Baez ~ Donna, Donna


「ドナドナ」とはヌードルス達の両親の故郷、東欧ユダヤ地域で牛を追う際の掛け声だそうです。


子牛はどこへ連れていかれたのでしょう。


ゲットーの高い壁

「ドナドナはアウシュビッツの暗喩だ」という説もありますが、この歌の制作時にはまだナチスによるホロコーストは始まっていません。しかしそれ以前からユダヤ人たちは厳しい差別にさらられていました。


「エル・ハポン」で「異教徒を追いだしたから人手不足~」とありましたが、異教徒にはユダヤ教徒も含まれていました。ユダヤ教徒は欧州各地でゲットーと呼ばれる、「進撃の巨人」のウォール・マリアのように高い壁に囲まれた居住区に住むことを強制されていました。それもいつ追い出されるかもわからない。


ユダヤ教徒同士の絆、学問・知識、歌舞音曲の技術の習得ーそれらは、たとえキリスト教徒に土地や住処が奪われたとしても、決して奪えないもの。今日のパンを得るための生きる術であり、ユダヤ人が人口に対してノーベル賞受賞者や金融業、芸能人が多い理由でもあります。

水晶の夜 宝塚

ドナドナの歌が作られたのと同時期の1938年11月、宝塚少女歌劇団は「日独伊親善芸術使節団」として、交流親善のためドイツに滞在していました。その際「水晶の夜」事件(ドイツ各地でナチスの指示によりゲットーが襲撃・破壊された事件。放火された炎が粉々に砕かれたガラスに禍々しく光っていた)に遭遇しています。


東洋人の少女が政府の招聘で公演している同時期に、ユダヤ人はかくも差別されていたー


学校で習った「ドナドナ」は、ゲットーを追われアメリカに逃げて行ったユダヤ人の歌でもありました。

小池先生の矜持

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」この映画を宝塚化するにあたり、困難な交渉があったそうです。詳細はわかりませんが、その困難の一つには、このお話が「ユダヤ人への差別」「差別と芸能」というセンシティブな問題と不可分であり、それを舞台でどう表現するかで相当慎重に検討したのだろうな、と感じました。


禁酒法と同時代の日本では、小林一三が宝塚で「朗らかに 清く 正しく 美しく」のモットーを高らかに掲げ、劇団員を女優と呼ばず「女学校の生徒の発表会」の体裁としていました。


それは当時のプロの芸能に、世襲制の、前近代から引きずったじっとりと重く、暗い「ドナドナ」のような哀調があり、その空気と決別して、芸能を明朗な近代的なものにしていこう、という決意表明の現れであったのではないかと思います。


「ワンス~」でダビデの星✡が要所要所に出てくるのは、ヌードルス達の人生の選択の根っこに「ユダヤ人であること」による差別があること、差別に対する矜持としてダビデの星があることをしっかりと説明しておかねばならない、という小池先生の大衆演劇作家としての責任感があるのかな、と思いました。