宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

なあ、梅川。赦してくれるか。『心中・恋の大和路』ポスター


「嘘も誠ももとは一つ、恋路には偽りもなく誠もなし、縁のあるのが誠ぞや」


雪の白さが、綿帽子の白さが目に沁みる。


夢の中の女?


もう、冥途から、こっちを見ているの?



夢白あやという芸名は、この役と出会うために付けられたのだろうか。



このポスターのシーンは、原作では「道行相合かご」と呼ばれる名文句で有名です。


相愛の男女の駆け落ち、というより、情死の逃避行、というほうがしっくりくるでしょうか。


道行とは人が旅をして、ある目的地に着くまでの道程を、次々と地名と特色のある風景を詠み込んで表現する形式で、


本作でも淡路町とか、平野(ひらの)とか、大阪の方にはなじみのある地名が耳に残ると思います。



翠帳紅閏(すいちょうこうけい)に枕ならべし閨のうち 

身をしのぶ道、恋の道


空にみぞれのひと曇り、あられ交じりに吹く木の葉。


昨日は華やかな翠帳紅閏(緑の帳に紅い寝室)で、枕を並べて同衾していたのに、


今は逃走中の身の上で、冷えたる足を太股に、膝組み交す駕籠(かご)のうち。



忠兵衛:なあ、梅川。



・・・あきらめて、赦してくれるか。



梅川:ねえ、何を言わせるの忠兵衛さん。


色恋づくは昔のこと。今はホントの、夫と妻。


恋は今生、先の世まで冥途の道をこんなふうに、手をひきましょうよ。



袖から入る凍った風を閉じあうように、2人は泣き合うのでした。




梅川は、現代で言えば、最高級の銀座のホステスとか、歌舞伎町№1キャバ嬢というわけでもありませんでした。



遊女の身分には上下の差があり、当時の京都・大坂では、4段階に分かれていました。


最高級の遊女を「太夫(たゆう)」といい、次に「天神(てんじん)」、「囲(かこい)」と続き、


最下級が「見世女郎(みせじょろう)」です。


梅川は、この見世女郎でした。


 見世女郎は、遊郭の店先で、大きな鳥かごのような格子「見世格子(みせごうし)」の中から、客を招きました。


揚げ代(あげだい・遊女や芸者を呼んで遊ぶための代金)も安く、あたかも見本品のように、格子越しに客の視線にさらされる、つらい身分だったのです。


近松は、こうした下級遊女たちを、情が深く、優れた心ばえを持った主人公とし、恋の物語を描きました。


そもそも、『心中・恋の道行』の原作である『冥途の飛脚』が、当時実際にあった公金横領事件を元にしています。




劇中に出てくる、梅川の同僚の「鳴戸瀬(なるとせ)」「千代歳(ちよとせ)」も実在の遊女。遊郭(新町の越後屋)や茶店の名前も、実在のもの。


実在の梅川は、忠兵衛が捕らえられて処刑後も、50余年生きながらえたと伝えられています。


近松門左衛門が、自分たちのことを芝居にして大当たりをとったことは知っていたでしょう。


忠兵衛以外誰も知らないはずの睦言を創作された心境は、いかばかりのものだったのでしょう。



近松門左衛門の弁。


「嘘も誠ももとは一つ、恋路には偽りもなく誠もなし、縁のあるのが誠ぞや」