そんなにいいね!が欲しい?『巡礼の年〜』感想
生田先生、リストの魂より客の意識を彷徨わせてどうする
『巡礼の年〜』の作者である生田先生の作劇は、芝居が直接表現している以上の裏テーマが、背景ではなく前景にせり出している印象があります。
個人的な感想は、『巡礼の年〜』は、リストの音楽人生を、彼のハンガリー人としてのアイデンティティや、「1848年、諸国民の春」と結び付けて、
”一般に「ドイツ・ロマン派の音楽家」と定義されるフランツ・リストを、「ハンガリー国民楽派」の音楽家“リスト・フェレンツ”として定義しなおす試み”
として興味深く、
超個人的には78点くらい付けたいのですが・・・
「1848年、諸国民の春」というキーワードについての予備知識が全くない状態で、初見でこのお芝居を観て
「よっしゃ、わかった」
と思っていただくのは、正直難しいのでは?と思うと、67点くらいの評価です。
もしも柴田先生がリストの人生を書いたら、
「パリピなイケメンピアニストが、伯爵夫人と泥沼不倫する話」
にテーマを集中するのでしょうが、
生田先生の作劇は、
大枠の「大きな話」として、うたかたの恋につながる、革命の嵐とエーアン・ハンガリー、貴族の時代の終焉、
リスト個人の「小さな話」として、SNSでいいね!を求めてしまう現代人にもつながる、「承認欲求との付き合い方」
時代のうねりという「大きな話」と、リスト個人の内面のうねりの「小さな話」が並走していて、
最後に「大きな話」と「小さな話」が統合する。
・・・こういうの、BSでやっている「歴史探訪」みたいな番組でやるなら面白いのですが、
ここは宝塚大劇場です。
生田先生、宝塚大劇場は、歴史論文発表の場ではないと思うの・・・
『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』をマズローの「欲求5段階説」に基づいて解釈してみる
ピアノの魔術師と称され、19世紀初頭のヨーロッパで絶大な人気を博したピアニスト、フランツ・リスト。
超絶技巧に彩られた情熱的な演奏と、女性達を虜にしてやまない類まれな美貌でパリのサロンを席巻し、瞬く間に時代の寵児となった彼が追い求めたものとは…。
ハンガリー人である事を自認しながら、その生涯の中で母国語を話すことができなかったフランツ・リスト。
自身の本質的なアイデンティティである“リスト・フェレンツ”として生きる事をその胸の内で願いながら、一方でカリスマ性を秘めたスター“フランツ・リスト”であることを自ら欲し、そして周囲から求められ…その狭間で生きる人生に次第に葛藤を覚えていく。
自らの“魂”の居場所を探し、ヨーロッパ中を彷徨い続ける若き日の彼の姿を、運命の恋人マリー・ダグー伯爵夫人とのロマンスを中心に、最大の好敵手でもあるショパンとの友情を交えて描く。
自己とは、自分とは。そして、自分らしく生きるとは何か? を問いかけるミュージカル作品。
マズローは人間の欲求構造を、基礎的段階から順に次の5段階をなすと説明しました。
(1) 生活維持の欲求 (生理的欲求) ,
(2) 安定と安全の欲求,
(3) 社会的欲求 別名「所属と愛の欲求」 (集団的欲求,所属欲求,親和欲求) ,
(4) 自我の欲求 、承認欲求(人格的欲求,自主性の欲求,尊敬の欲求) ,
(5) 自己実現の欲求。
そして究極的には、
自己超越(自分が自分がばかり言わず、自己を超越して、世のため人のために尽くしましょう。)の境地へ。
つまり人間の欲求は、
とにかく生き延びたい!
↓
安心・安全な場所にいたい
↓
世の中に居場所が欲しい!
↓
他人からの「いいね!」がほしい
↓
自分らしく、クリエイティブでありたい。自分の音楽をやりたい!
↓
自分の才能を、自己実現だけでなく、世の為人の為に使おう!
のように、低次の欲求からより高次の欲求にレベルアップしていくという理論です。
これを『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』にあてはめてみましょう。
~承認欲求論の権威、マズロー先生風に『巡礼の年〜リスト・フェレンツ、魂の彷徨〜』を解説してみる~
フランツ・リストは、エステルハージ家の荘園の執事であり、音楽的素養のあった父を持ち、生活維持の欲求や安定と安全の欲求が脅かされるような成育歴ではなかった。
幼い頃は「モーツァルトの再来」と持て囃され、父が仕える貴族に紹介状を書いてもらい、ウイーンでサリエリ(アマデウスのライバル)に師事するなど、順調に音楽家としての修練を積む。
更なるステップアップのため、父子でパリに移住し、ヨーロッパ中の神童が集うパリ音楽院に入学を希望するも、拒否される。
失意のうちに、わずか15歳で父を亡くし、少年リストは「ぼくの居場所を探さなきゃ」安定と安全の欲求が脅かされる。
リストはピアノ教師として生計を立て、超絶技巧に彩られた情熱的な演奏と、女性達を虜にしてやまない類まれな美貌でパリのサロンを席巻し、瞬く間に時代の寵児となった。
社会的欲求を満たしたはずなのに、いくらちやほやされても、夜ごと違う女を抱いても、
リストの承認欲求は、塩水を飲むように、飲めば飲むほど渇くばかり。
そんな中、リストは「文筆の才能を世の中で発揮したいのに、夫に理解されず、伯爵夫人として籠の鳥、居場所を探すマリー・ダグー伯爵夫人」と出会う。
居場所を、承認を渇望してやまない2人が出会い、スイスの山の中で、ささやかな所属と愛の欲求が充たされる。
よかったね、と思っていたら、パリからドヤドヤと、ショパンやジョルジュサンドたちがやってくる。
このシーンが、ただのお邪魔虫ではなくて、ショパンとサンドは、リストとマリーをさらなる「高次の欲求」に導くためにやってくるんですね。
ざっと言うと、
「他人からの承認を求めてやまない状態=低次の承認欲求 のままでいるな」
「自分で自分を認めてあげるのが、高次の欲求だ!」
「何のために音楽をやるんだ。他人にウケるための音楽をやるな。自分の音楽をやれ!」
と、より高次の自己実現に向かうよう、はっぱをかけにくるわけです。
ここでリストは、スイスでマリーと過ごした満たされた日々にインスピレーションを得て作曲した「巡礼の年」を発表し、大好評!
自分の音楽で、世間に認められた!
自己実現できてよかったね、と思ったら、
リスト君は「自身の本質的なアイデンティティである“リスト・フェレンツ”として、母国ハンガリーで認められたい!」
とハンガリーへ社会的欲求を満たしに行ってしまう。
ここで革命の季節となり、歴史の「大きな話」のターンに切り替わる。
(1848年、パリでの革命の影響を受け、ハンガリーでコッシュート(ドナウ連邦の提唱者)が民族独立運動を行うも、オーストリアとロシアの軍に鎮圧される。
その後も、ハンガリーに独立を!古い帝政を廃し、新しいドナウ連邦を!の運動は続き、エリザベートとルドルフの話に繋がる)
くわしくはこちらの記事で
リストさんがハンガリーで調子に乗って剣の舞をするシーンで流れる曲
リスト: ハンガリー狂詩曲 第2番[ナクソス・クラシック・キュレーション #カッコイイ]
いろいろあって、最終的にショパンとサンドは、精神世界でリストを
自己超越(自分が自分がばかり言わず、自己を超越して世のため人のために尽くしましょう。)の境地へと導き、
ラスト、時代のうねりという「大きな話」と、リストとマリーの内面のうねりの「小さな話」が統合して、
2人は自己超越の境地に至るのでした。
めでたしめでたし。
といくはずが・・・
生田先生、リストの魂より客の意識を彷徨わせてどうする。