『応天の門』正直感想
『応天の門』配信初見のメモ書き感想です。
平安朝クライム・ミステリー、菅原コナンの物語と思いきや
藤原良房とその養嗣子・基経が朝廷の権力を掌握しつつあった平安初期。
京の都では、月の子(ね)の日に「百鬼夜行」が通りを闊歩し、その姿を見た者を取り殺すという怪事件が頻発していた。
幼き頃から秀才との誉れ高き文章生・菅原道真は、ひょんなことから知り合った検非違使の長・在原業平にその才気を見込まれ、この怪事件の捜査に協力する事となる。
唐渡りの品を扱う勝気な女店主・昭姫(しょうき)らの協力の元、次第に事件の真相に近付いてゆく道真。
だがその背景には、鬼や物の怪の仕業を装い暗躍する権力者たちの欲望が渦巻いていた…。
藤原良房(光月 )とその養嗣子・基経(風間)はイラついていた。
良房は幼い清和帝(千海)の祖父として権勢を振るっていたが、姪であり養女でもある高子(天紫)を清和帝の妃とする計画がなかなか進まない。
そうこうしているうちに、良房の弟の藤原良相(春海)の娘である、藤原多美子(花妃)のほうが先に入内する運びとなる。
多美子は信心深く、徳たかく,優美な姫。
うちの高子は父や兄に反抗的だし、在原業平と駆け落ちするし、年齢も20歳を超えて、当時としては微妙なお年ごろになってきた。
このままでは、弟の一家に権力が移ってしまう。なんとかせねば・・・
そんな状況下で、物騒な鬼や物の怪の仕業を装い暗躍する権力者の正体は!?
リトルホンダならぬ、リトルスガワラの話でした
『応天の門』-若き日の菅原道真の事-は、原作の、死後「怨霊」と怖れられ、今も日本中の受験生の願いをうけとめる「神様」になった菅原道真を、
「私は鬼も、物の怪も、神仏も信じません!」
「憧れは、唐の国!」
白紙に戻そう遣唐使で、日本一有名な怨霊にして天神さんを、人の世の処世術よりも、学問の真実を追求したいリトル菅原くんに設定するという、
世の中の天神さんへの固定観念を横転させたアイデアが面白いですね。
平安朝ミステリとしては、かなり前半で事件の黒幕の察しがつきますし、
平安朝クライムとしては、黒幕が使ってくる手口が、緻密に追い詰める完全犯罪というには、毒とか誘拐とか、かなり荒っぽい手口を使ってくるし、
黒幕は、お芝居の終幕後も暗躍を続けることが見え見えで、
「俺たちの戦いはこれからだ!」
ー完ー
ご愛読 ご観劇ありがとうございました。
・・・
個人的には、観劇前に察しはついていたのですが、
大劇場で、90分の独立したコンテンツとしてパッケージ化するには、ちょっと事件の規模や大劇場の舞台機構の使い方がこじんまりしていたのでは。
ホームズでは、舞台にバーンと滝!、『蒼穹の昴』では、舞台に紫禁城!
どうせ大劇場で上演するなら、日本史上有名な平安朝クライムミステリーである、
応天門が炎上!
黒幕は誰だ!
なストーリーを見たかったなあ・・・
という思いもあります。(原作でまだ応天門が燃えていないのですから、しょうがないのですが)
本作では、黒幕を追い詰めるミステリ要素よりも、
「主要人物たちの抱える過去との対話」「過去の不幸な体験によって抑圧されている隠れた真の自己との対話」の物語として興味深かったです。
いわゆる、「リトルホンダ」ならぬ、道真の心の中の「リトル阿呼(あこ 道真の幼名)」ですね。
※リトルホンダとは
本田圭佑:心の中で、私のリトルホンダに聞きました。
「どこのクラブでプレーしたいんだ?」と。
そうしたら、心の中のリトルホンダが「ACミランだ」と答えた。
そういう経緯があって、ACミランに来ました。
藤原良房とその養嗣子・基経が朝廷の権力を掌握しつつあった時代、
道真は幼少期に、実の兄を、基経の兄たちの故意・重過失により亡くしているのですが、菅原家は泣き寝入りを強いられ、
在原業平は、高子と駆け落ちして連れ戻され、
それぞれ藤原家によって煮え湯を飲まされている。
多美子とその兄常行(礼華)は、「煮え湯を飲まされる」が比喩でなくなる事態になる。
大人になり、生き抜くためには、黒いカラスを白いとも言う。鬼の正体は人ではなく、やっぱり鬼だということにする。
道真の心の中の「リトル阿呼」は、亡き兄吉祥丸(瑠皇)に聞く。
「鬼は誰だ?」
「やっぱり、鬼は人なんでしょう?」
そういう経緯があって、道真は自らの「才」を武器に、人の世の鬼と戦う決意をする。
基経も、リトル基経時代に、吉祥丸に会って、こんなポエムを教えてもらった。
余(よ)に問う 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲(す)むと
笑って答えず 心(こころ)自(おの)ずから閑(かん)なり
ある人が、私にこう質問した。あなたは一体どんな考えがあって深い緑の山のなかに住んでいるのか、と。
私は笑って答えない。その心は、いたってのどかです。
続きを聞こうとしたのに、もう吉祥丸とはそれきり会えなかった。
でも、そんなポエムを教えてもらったことを、ずっと覚えていた。
リトル基経は、
「私には「才」があるから、深い緑の山のなかのポツンと一軒家で、のどかに笑って暮らすなんてできない」
「藤原北家の繁栄のために、俗世にまみれて、時には鬼になって生きなきゃ。」
でも、リトル基経はぽつんと
「才なんか、ない方がいい」
ともらす。
これらの工夫により、現代社会で、自分の心の中のリトル○○に蓋をして生きている観客にも、「私は何がしたいんだろう」と考えるきっかけになって、ひとごとでない物語になったように思います。