宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

『舞姫』感想


植田景子は、『舞姫』を、森鴎外(太田豊太郎)によるゲーテの『ファウスト』のパロディとして演出した?





東大法科出身の官吏太田豊太郎は法律研究のためベルリン大学に留学したが,仲間の讒言(ざんげん)で免官になり,貧しく美しい踊り子エリスと同棲する。


しかし,ベルリンを訪れた天方伯と随行の友人相沢謙吉から帰国をすすめられたとき,生来の性格の弱さゆえに拒みきれず,発狂したエリスを残して帰国の船に乗る。


鷗外自身に,ドイツ留学から帰国後,ドイツ女性が後を追って来日した事実があり,ドイツ体験の深層を虚構化したと目される問題作。


森鴎外が自身の経験をもとに執筆したとされる『舞姫』は、


日本近代の黎明(れいめい)期における、西洋の合理主義と日本の古い体制に挟まれ、自己について考え苦悩する青年の魂の苦悩をえぐりだした、日本文学史の金字塔との評価の高い古典です。


文学史上の評価はともかく、異国の地で現地の女性を妊娠させて、相手が発狂したのに責任を取らずに逃げ帰るという展開は、令和の時代の観客が見て、「うん、わかる!」という共感を得るのは難しいだろうなあ、と思います。


エリスの人物造形も、現代の観点から見ると、無垢で純真、というより、


「愛がいちばん大事」ばっかりで、異国の価値観やエリート留学生の立場にまったく想像が及ばない、ある種の無知や単純さを持つ女性とも見なされるかもしれません。


そもそも史実では、エリスは鴎外の後を追ってドイツから来日し、日本で1か月にわたって鴎外の家族に説得されてドイツに帰っていますので、


鴎外と別れた後も、船旅に耐える身体と精神を保っていたはずです。


鴎外は1888年にドイツから帰国し、『舞姫』を発表したのは2年後の1890年1月。当時の鴎外はバリバリの現役エリート官僚です。


個人的に、


なぜ、鴎外は、読者が太田豊太郎と森鴎外を重ね合わせるのは承知だろうに、物語中でエリスが妊娠・発狂するという、太田豊太郎を史実よりもゲス野郎な設定にしたのか?


そんな露悪趣味なことをして、自らのパブリックイメージを損ねて、出世に差し障らなかったのか?


と疑問に思っておりました。



配信を視聴しまして、


劇中、豊太郎とエリスがゲーテの『ファウスト』を読んでいたり、


エリスが豊太郎の腕の中で


「このまま、時間が止まればいいのに」


と語るなど、随所に『ファウスト』のセリフが引用されており、


『舞姫』は、森鴎外によるゲーテの『ファウスト』の翻案として見ると、興味深い、


という気づきがありました。


ゲーテの『ファウスト』は、


無限の探究精神をもったファウストが、あらゆる学問にも満足せず、


悪魔メフィストフェレスと、


宇宙の神秘を探り、人生を味わいつくして、


「時間が止まればいいのに」


と言いうるなら、魂を引替えにしてもよい


という契約を結ぶ話です。




ファウストはメフィストフェレスMephistophelesの魔術の力を借りて若がえり,清純な庶民の娘グレートヒェンGretchenを誘惑し,生まれた子どもとともに彼女を捨ててしまう。


嬰児殺しの罪でグレートヒェンはファウストの名を呼びながら死刑に処せられるが,悔悟によって堕地獄から救われる。


ゲーテの『ファウスト』を森鴎外が翻訳した文章から引用します。


まあ。 もう キス を する こと も お 忘 なすっ た の。


あなた ほんの ちょっと の 間 別れ て いらっしゃっ て、 


もう キス を する こと も お 忘 なすっ た の。 


こうして あなた に 縋っ て いる のに、 なぜ せつない の でしょ う。


 何 か 仰 ゃって、 わたくし を 御覧 なすっ て、 息 の 詰まる 程 キス を し て 下さる と、 天 が そっくり 落ち て 体 に 被さっ て 来 まし た のに。 


 キス を し て 下さい よう。 なさら なけりゃ、 わたくし が いたし ます わ。 


(抱き 附く。) 


あら。 あなた の お 口 の つめたい こと。


それ に 黙っ て いらっしゃる のね。 お 情 は どこ へ 行っ て しまい まし た の。 わたし 誰 に 取ら れ て しまっ た の だろ。





わたくし 母 様 を 殺し て しまっ て、 赤 さん を 水 の 中 へ 投げ込み まし た の。 


あれ は わたくし と あなた との 赤 さん じゃ あり ませ ん か。 あなた も 親 だ わ。 


本当に あなた なの。 本当 かしら。


ゲーテ ヨハン・ヴォルフガング・フォン. ファウスト 青空文庫. Kindle 版.


『ファウスト』劇中で、ファウストの子を身ごもったグレートヒェンが、ファウストに捨てられたと思い悩み、産んだ子を殺してしまった後にファウストに再会した時のセリフです。


相沢謙吉から豊太郎の帰国を告げられ、流産のショックで精神を病んだエリスのセリフとして読み替えても、ぴったりハマりませんか?


『舞姫』のエリスの描写よりも、グレートヒェンのセリフの翻訳のほうに、鴎外の恋人として実在したエリスの、ナマの息遣いを感じるほどに。


相沢(帆純)が、主人公を導き、引きづって連れ去るメフィストフェレス、


衛生学オタクの岩井 直孝(泉)が、ドイツ衛生学の信奉者で、刺身も果物も煮て食べた鴎外の分身でしょうか。




『ファウスト』第2部では、ファウストがさまざまな苦難を経て、現世的な国家経営に乗り出していきます。


植田演出版『舞姫』では、太田豊太郎がエリスを捨てて天方伯と帰国後、大日本帝国憲法の制定に関わる、という原作に無い設定を入れています。


西洋の美術を学ぶ為、私費でベルリンに暮らす画家、馳(はせ) 芳次郎(侑輝)は、生涯をかけたこの1枚!を描きあぐねて客死した。


豊太郎は、エリスから見たら、人として魂を売ったろくでなし、なのかもしれないが、


大日本帝国というキャンバスに、大日本帝国憲法という、国家のグランドデザインを描いてしまったんだなあ。


こんなとてつもないでっかい絵を見たら、馳も天国でたまげるだろうなあ。


植田景子先生の演出は、森鴎外が作品に隠したかもしれないファウスト・コードの解読の一案として、面白かったです。