「他人の感想」に自分の感想を上書きされる
書評家で、宝塚と女性アイドルが大好きだという三宅香帆さんの著作
『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』
(ディスカヴァー・トゥエンティワン)!
を拝読いたしました。
宝塚ファンにとって、贔屓の素晴らしさを語りたいのに、
「とっても素敵だった」
「すごくよかった」
「もうね、超やばい!」
推しの素晴らしさを言語化しようとしても、いい言葉が思い浮かばない!
ああ、よくある悩みだわ。
管理人も、ブログの記事を書くたびにキーボードを打つ手が止まり、
「これは、語彙力が足りないせいだわ」
と、日々自分の語彙力の無さを呪っています。
ところが、著者の三宅香帆さんは、
「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこないのは、語彙力が足りないせいではない」
ときっぱり言い切っておられます。
贔屓の素晴らしさを言語化したい!SNSで共有したい!
と思ったとします。
”クイズ番組の問題に出そうな、読めない漢語表現”
や
”英語に堪能な方でなければ知らないような、新しいカタカナの概念”
をふんだんに使えば使うほど、推しの素晴らしさをばしっと言語化できる!
・・・わけでもない。
特にSNSにあげる文章は、いくら語彙力豊富でも、意味が読み手に伝わらなくては、贔屓の魅力も伝わりません。
そもそも、宝塚ファンのほとんどは学校で国語教育を受け、社会人として生活ができているのですから、贔屓の魅力を語るための日本語力は十分備わっているのです。
では、なぜファンは自分の『好き』を言語化しようとして戸惑うのか?
著者の三宅香帆さんによれば、根本的な理由は、
”他人の意見に影響されてしまうから”
だそうです。
現代では、贔屓が出ている舞台の初日の幕間になれば、SNSに熱心なファンたちの感想が飛び交います。
特に舞台演劇は、TVドラマや映画に比べて、初日から自分の観劇日まで間があることが多く、その間にSNSの「すごい!」「良かった!」「やばい!」を目にしています。
そして、自分が観劇した感動を言語化しようとしたとき、
「あれ、すごく良いってわけでもないかも・・・?」
とちらっと思ったとしても、
「SNSでみんな「すごい!」「良かった!」「やばい!」って言っているから、この舞台はすごくて良くてやばいはずよ。うん、そうよ。」
あるいは、それでも何かひっかかる点があって、自分の感想を言語化する前にSNSで
「宝塚 ○○○ 感想」
と検索し、誰かが「その人のオリジナルの言葉で語っている」記事にピンとくるものがあると、そのブログのコメント欄に
「わたしの抱いたもやもやを代わりに言語化してくださり、ありがとうございます。」
とコメントしたり。
それが、「ほんとうに自分の気持ちにぴったり」なら良いのです。
ただ、自分の感想を他人に代弁してもらうのを待つことが習慣になると、
「他人の感想」が「自分だけのオリジナルの感想」を上書きしているかもしれません。
著者の三宅香帆さんによれば、
「自分の『好き』を言語化するうえで、一番重要なことを伝えましょう。
ずばり、『他人の感想を見ないこと』です。」
正確には、「自分の感想」を書くまで、SNSの他人の感想を見ない!
正直、他人の言葉に頼らず、自己と対話し言葉を探すのは、孤独な作業です。
でも贔屓に対する想いや舞台を見た感想って、自分だけのオリジナルであってよいはず。
贔屓に動かされた自分の心の底へ探検旅行に出かけるつもりで言葉を探せば、義務教育で習う単語の組み合わせで、自分だけの『好き』を言語化できるそうですよ。