宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

『1789』感想ベルばらは過去のものになったのか


『ベルばら』ってやっぱりずばぬけた作品だったんだなあ




星組版『1789』は、


『ベルサイユのばら』はもう古い!


これからは、宝塚でフランス革命といえば『1789』!


という作品になれたのか?



個人的には、


「ああ、これで「ベルサイユのばら」は過去のものになったなあ」


までのインパクトは無かったです。



大ヒットミュージカルには、凡百の作品には無い、卓越した設定のキャラがいます。


『エリザベート』には「死神と不倫する皇妃」


『ベルサイユのばら』には「王妃への忠誠と革命への共感に引き裂かれる、男装の麗人」


『1789』には・・・




宝塚に限らず、


ロナン的な、平民側で貧しさに苦しみ、マリーアントワネット側に憎悪を向けるキャラ


オランプ的な、上流階級側にいながらも革命に理解を示すキャラ、


たちは、フランス革命ものの作品には、


たいてい登場する定番の人物です。


『1789』は、『ベルサイユのばら』で例えると、王妃への忠誠と革命思想への共感に引き裂かれるレディ・オスカルの要素が、


第1幕 アンドレ、自由・平等・博愛について学ぶ編


第2幕 ロザリー、王妃への忠誠心と革命への共感に引き裂かれる編


に分離しているような印象で、


マリーアントワネットたち王族側の描写も、教科書で習ったとおりの、世間一般のイメージを裏切らないオードソックスな描写です。


全体に、正統的で王道で、無難にまとまっていると思うのですが、


他のフランス革命もの作品と一線を画すような個性はあまり感じられなかったです。



個人的に「ロナンは、私だ」と思った点


個人的に、「なるほど、今の時代のフランス革命ものミュージカルならではの視点だなあ」と思ったのは、


革命を志向する平民同士の差異、特に「文化資本」の格差が、ロナンとデムーランたち、ロナンとオランプとの見えない壁、ロナンの疎外感の原因にになっているのだろうなあ、と思わせる描写です。





1789年のフランスの格差社会


頂点:神


上の上:マリー・アントワネット一家


上の上´:アルトワ伯


上の中:ポリニャック(伯爵夫人→公爵夫人)、ペイロール(伯爵)


上の下:オランプ(中尉の娘)、


ー超えられない身分の壁ー


中の上:デムーラン(地方公務員の子で弁護士)、ロベスピエール(弁護士の子で弁護士)


―平民同士でも超えられない「文化資本」の壁ー


中の中


中の下


下の上:ロナン(字は読めるが、哲学を習っていない)


下の中


下の下:飢え死に





ロナンは、当時のフランスの農民としては、字も読めるし、社会への関心もあり、向上心に燃えた人物だと思います。


父を殺された恨みに燃えてパリに出てきて、デムーランやロペスピエールと出会い、印刷工場で「俺たち仲間だぜ!」と革命思想を教わる場面で、


ロナンは「俺だって字くらい読めるぜ!」と革命パンフレットを読むのだけれど



「哲学」



がわからない。




「てつがく」という読み方を教えてもらっても、自分が農村での苦労で学んだ人生を生きる知恵と、デムーランやロペスピエールが学校で教わり、一晩中パンをかじりながら議論してきた「哲学」は、何か違うものらしい。


劇中ではぼかされているけれど、


ロナンとオランプが、身分の差で結婚を妨害されない21世紀のフランスに生まれていても、


ロナンが北アフリカから来た難民の子孫でパリの貧困地域暮らしで、オランプがパリの名門女学校を優秀な成績で卒業しているような子だったら、


2人の間に愛の言葉以外で、対等な対話が成り立っていたのだろうか。






私はハーバード大学のマイケル・サンデル教授と、日本(東京大学・慶応大学)アメリカ(ハーバード大学)、中国(清華大学・復旦大学)の名門大学に通う学生たちのディベート番組を見て、



「都会の私立学校に通うような子は、学生の頃からこんな討論に慣れているのかあ」


「私が育った地方の僻地の学校では、先生はこんな面白そうな討論の授業は提供してくれなかった」


「地方では、宝塚も東宝ミュージカルも簡単には見られない。前衛芸術にも触れられないし、そもそも図書館もレンタルビデオ屋も無かった」


と思い知り、都会のお金持ちの子供がうらやましくてたまらなくなりました。


現代の日本でも、大学進学率や正社員就職率に、幼い頃に経験する「文化資本格差」がいかに影響を与えているか、は切実な問題です。





幼い頃に経験する「文化資本格差」がいかに人のその後の人生を左右するか、身をもって体験してきた。


筆者は中国地方の貧困家庭で育った。生まれ育った県営住宅の団地には低所得世帯が集まっていた。


みなお下がりのよれた服を着ていたり、家の掃除がされず部屋が荒れていたりと団地内の家庭環境はとても似ていた。しかし、進学校の高校、大学へと進学すると、周囲は高所得の家庭ばかりになった。


大学の友人は多くが親も大卒。資格や免許を取って計画的に貯金をし、社会人になると健康保険や生命保険に入る。一方、中学まで一緒だった貧困家庭の子どもたちは、多くが高卒で非正規雇用に従事する。


同時に存在する二つの世界には明らかに壁があり、違いがある。


それは単に、所得という数値化できるものだけではなかった。


教育、習慣、文化。


例えば、習い事をさせてもらえるかどうか、家に本があるか。大学に進学することを応援してくれるか、高卒で働くことを勧められるかどうかなど、そこにはあらゆる違いがあった。


『1789』ラストシーンで、ロナンがバスチーユの「壁をのぼり」、オランプの父親を救出した直後に撃たれたのは、


ロナンはオランプとの「文化資本格差」の壁を越えられないことの暗示なのでしょうか。



私の家庭は、習い事をさせてもらえたし、家に本があったし、大学に進学することを応援してくれたので、ロナンに比べたら恵まれていたのだけれど、


「舞台芸術に触れる」という意味での「文化資本格差」は、都市部の方に比べたら圧倒的に足りていない。


ライブビューイングや配信の普及で、都市部の方との「文化資本格差」が少しでも縮まったような気になっていても、


私は、都市部在住の宝塚ファンや舞台ファンがUPされる、豊富な生観劇の体験に裏打ちされた観劇記を見るたびに、「私には、書けない」と思い知り、オランプを見るロナンのような眼で観劇記を読んでいる。


ロナンは、私だ。