宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

ウエクミ演出ベルサイユのばらを見たかった





宝塚グランドロマン

『ベルサイユのばら』 -フェルゼン編-

~池田理代子原作「ベルサイユのばら」より~

脚本・演出/植田 紳爾

演出/谷 正純


1974年の初演以来、累計観客動員数500万人を超える宝塚歌劇最大のヒット作として数々の伝説的な舞台を生み出してきた『ベルサイユのばら』。


初演から50周年を迎える2024年、10年振りに宝塚大劇場の舞台に甦ります。


少女漫画の歴史を塗り替え、時代や国境を越えて多くの人々から愛され続けるこの作品は、革命の火が燃え上がるフランスを舞台に、二組の恋人達の許されざる恋を描いた物語。


宝塚歌劇ではこれまで様々なバージョンを上演して参りましたが、この度は「フェルゼン編」として、50周年の記念すべき年を飾る『ベルサイユのばら』の華麗なる世界をお届け致します。   



『ベルサイユのばら』のあのノリはなんなのか


というわけで、『ベルサイユのばら』でございます。


さすがにSNSで


「雪組、ベルばらに当たっちゃってお気の毒ー。あれもう古くてダサいよねー」


とまでおっしゃる方はあまりお見掛けいたしませんが、100周年以前からのファンが複雑なお気持ちを抱いていらっしゃることは薄々感じております。


TVで「宝塚風にしてみました」企画では、今も「エリザベート」でも「1789」でもなく「ベルサイユのばら」ネタなんですよね。


で、宝塚版『ベルサイユのばら』の舞台映像ダイジェストが流れたりして、



「ベルサイユのばら」ってデカデカ刺繍しているカーテン ←知ってるって!


「ごらんなさい♪ごらんなさい♪ベルサイユのば~ら♪」 ←歌われなくても見てるって!


正面を向いて説明セリフを連呼しているし、


ドレスやかつらはゴテゴテだし、←そこは史実・・・


「お待ちください!」チャンチャカチャンチャンチャ~ン!で、トップスター登場!←歌舞伎か!


「目が見えない」とか「血を吐いた・・・」とか「シュテファンというお人形」とか、ベタでコテコテ。


「マリーアントワネットは、フランスのじょーおーなのですから!」←じょーおーでなくて、王妃じゃん。


・・・最近はあまり見ませんが、昭和~平成初期のころは、「よいご趣味」をもち「経済力に富んでいる」方から


宝塚ファンって、こんなのを面白がっているの?


と茶化されて、いやーな思いをしたファンが多かったのですよ。


ダイジェストで見ると「え」だけど、2時間ちゃんと見ると、ベタをガチでやっている神々しいまでの想いの強さに圧倒されて、悔しいけれど泣かされてしまう。


・・・なんなのでしょうねえ。この美意識。


「昔の宝塚作品はみんなこんなもの」とも違う。


『ベルサイユのばら』初演の頃には、柴田侑宏先生が今も再演される


『アルジェの男』(1974年)


『星影の人』『あかねさす紫の花』『バレンシアの熱い花』(1976年)


を発表されていたのです。


映像で見た『バレンシアの熱い花』など当時の宝塚の「洋もの」の雰囲気は、衣裳やセリフ回しなど古さを感じるところはありますが、


『ベルサイユのばら』のテンションは、当時の宝塚の洋もの演出のスタンダードではありません。


植田伸爾先生も、普段は特にメルヘンな作風でもありません。サイトー先生より遥か昔の1995年に、ベルリンの壁崩壊をテーマにした『国境の無い地図』を上演したり、戦争とか政治については結構硬派な方です。


なんなのでしょうねえ。『ベルサイユのばら』の、


「もっと洗練された、おしゃれな、芸術っぽいものにしたい」


というエゴとか見栄を振り切った「あの」ノリ。



ルキーニが言うところの


Oh!キッチュ!



キッチュ

「けばけばしさ」や「古臭さ」や「安っぽさ」などを意識しながら、それらの性質や状態を、あえて積極的に利用しようという美意識のあり方。


ドイツ語のKitsch(まがいもの、いい加減なもの)に由来する。


(キッチュとは、イギリスに旅行に行って「チャールズ国王とカミラ王妃の顔をプリントしたマグカップ」を買ってきて土産に配るような、


「もはやお前「あえて」やってるだろ」


な美意識のこと。)



・・・も、ちょっと違うかなあ。『ベルサイユのばら』は、インド映画的なベタをガチでやっている強さがある。


初演当時の新聞評では



「宝塚調といわれる少女趣味ときらびやかな通俗性を、なんのてらいもなくふんだんに駆使した長谷川演出も、ここまで徹すると一種不思議な迫力をもってくる」

と書かれています。


現行の『ベルサイユのばら』の独特の空気は、初演時の演出を担当した長谷川一夫氏の個性に由来するものなのかなあ。


宝塚版オスカル=長谷川一夫説


長谷川一夫とは、昭和を代表する映画俳優。


5歳で歌舞伎の舞台を踏み,初代中村鴈治郎のもとで役者の修業を積む。


その〈水もしたたる美貌〉を買われて松竹に招かれ,女方から美男剣士の道へと進み、日本中の女性をキャーキャー言わせた時代劇俳優。


女方もできるイケメン剣士、ある意味、和製オスカルとして生きた稀有な方。


植田紳爾先生が『ベルサイユのばら』というコンテンツの受容史において果たした一番の功績は、


「宝塚で『ベルサイユのばら』を上演するなら、長谷川一夫氏に演出をお願いしたい!」


と思いついて、実現させたことではないでしょうか。


だから『ベルサイユのばら』の人物は歌舞伎的に見得を切り、オスカルは女形のように体を不自然にねじっている。


この、ねじれた色気。


長谷川一夫の芸には、歌舞伎の立役芸、女方芸、チャンバラスター芸、昭和までの日本の芸能のエッセンスが集約されていた。


植田伸爾先生は宝塚版のオスカルをとおして、女方もできたチャンバラスター、和製オスカル長谷川一夫の芸を歌舞伎の「家の芸」のように伝えたいのかもしれません。


映画評論家の白井 佳夫 (しらい よしお)さんによる、長谷川一夫の言葉



俺は芸術祭が何とか、リアリズムが何とかなんてどうでもいいんだ、俺を好いてくれる大衆にスクリーンの中から一番いい面を見せてあげて、それを喜んで頂くのが私の使命である、と。


その為には、新人の女優にも教えてくれたんですね。「あなたそんな所におったら駄目よ、もっと前に出て来て、体は不自然だけどねじりなさい。そうすると場面に女の色気が出てくるのよ」という事まで教えて貰ったというんですね、そういう人が居たんですよ。