宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

ワンス大千秋楽 宝塚の本質は神への祈りなのだと思った

なんで羽を背負うんだろう

日曜日にスカステで生中継された雪組「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」、本編が終わり、フィナーレの途中で息子が家に帰ってきました。


息子「まんなかの人、なんで おひさま になっているの?」


おひさま・・・ああ大羽ね。うーん、宝塚のトップって、なんで最後は大羽をしょうんだろうねえ。それは「様式美」と言って・・・


それは神への祈りかもしれない

宝塚は一本立てでもショーでも、最後は大階段のセンターで大羽を背負ったトップがバン!とスポットライトを浴び、主題歌を歌い上げる。


おそらくブロードウェイでも、いや世界中探しても、こんな演出を毎回やっている劇場、劇団は無いと思う。


男役トップが大階段で大羽を背に歌うとき、私は毎回、太陽神が降臨する儀式に参加したような気分になります。


演劇の源流をたどっていくと、ギリシャのオリンピック聖火の点火式で演じられていたような、巫女たちによる太陽神への祈りの儀式のようなものに辿り着くのだそうです。


今回の上演もひょっとしたら無観客となる可能性もありました。もしそうなっていたとしても、生徒さんたちは演じていたでしょう。それはカメラの向こうのスカステ視聴者に向けてのものでもあるけれど、さらに、演劇の原点、人間を超えた神への、祈りのようなものとして。


と、望海さんがダビデの星に向かって、ゲッセマネの丘でのキリストの祈りのように、あるユダヤギャング個人の葛藤を超えた、未曽有の状況に立ち向かう人類の祈りのような絶唱を聞いて思ったのでした。