宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

宙ホテルスヴィッツラハウス神と結婚した男ニジンスキー


「ホテル・スヴィッツラハウス」とは?




演出を手がける植田景子が書き下ろしたオリジナル・ミュージカル『Hotel Svizra House』は、第二次世界大戦下、中立国スイスのサン・モリッツにある高級ホテルを舞台に、戦火を逃れ、それぞれ事情を抱えて集まってきた、国籍も職業も様々な人たちが繰り広げるヒューマン・ドラマだ。



作・演出の植田は、文化庁の新進芸術家海外研修制度でハンブルク・バレエ団に留学した経歴の持ち主で、これまでもその経験を生かした作品づくりをしている。今回も、植田ならではの美しい世界観が描かれるだろう。



植田先生は、ハンブルク・バレエ団に留学されていたことがあるそうで、


ハンブルク・バレエのレパートリーに、まさに「ホテル・スヴィッツラハウス」で行われた伝説のダンサー、ニジンスキーのサヨナラ公演を主題にしたバレエがあります。



ハンブルク・バレエ団2018日本公演「ニジンスキー」PV(30秒)


「バレエ・リュス」とは?




舞踊家に加え,前衛作曲家,画家,詩人らを結集し,バレエの総合芸術化を企ててその革新に成功したバレエ団として知られる。


絶大な人気を得たが,1929年ディアギレフの死とともに解散。参加した芸術家はその後それぞれの分野の一線で活躍した。


そのなかには,台本を書いていたジャン・コクトー


作曲家のエリック・サティ,ニコライ・A.リムスキー=コルサコフ,イーゴリ・フョードロビッチ・ストラビンスキー,


画家はパブロ・ルイス・イ・ピカソ,ジョルジュ・ルオー,アンリ・エミール・ブノア・マチスらがいる。

1909年のパリで、ロシアからやってきた「バレエ・リュス」の旗揚げ公演が一大センセーションを巻き起こしました。


「バレエ・リュス」とは、ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフが、ロシア帝室マリインスキー劇場バレエ団のダンサーたちを集め、結成したカンパニー。



バレエ公演って、ダンサーや振付家がメインで、美術とか作曲とか衣装担当などは「裏方」としてクレジットされることが多いですが、


「バレエ・リュス」のすごいところは、出てくるダンサー&振り付け以外のスタッフ達も、ピカソとか、ココ・シャネルとか、みんな、世界史Bの教科書に載ってるクラスの芸術家ばかりなところ!まさの当時の芸術の最良の部分を集めた総合芸術!



19世紀末から20世紀初頭のパリのバレエ界は、芸術的な革新性を見失い、今でいう「パパ活」とか「枕営業」が横行する残念な状況になっていたところ、


「バレエ・リュス」が、どんだけ衝撃的だったかというと、


1913年「春の祭典」初演で、



あまりのショックに客が暴動を起こして警察が出動したそうで


・・・(バレエでだよ)




平山素子「春の祭典」|新国立劇場ダンス




バレエの第1部が終わったときには、すでに警察が到着しており、およそ40人が逮捕されていた。


このような騒動の中でも、公演は中断することなく続けられた。第2部になると騒動はかなり収まり、最後には何度もカーテンコールが行われた。作曲家のプッチーニは「狂人の仕業……完全な不協和音だ」と書いている。


ストラヴィンスキーがインスピレーションを得たのは、やはりロシアの民間伝承であった。春の到来を祝うさまざまな原始的な儀式の後、少女がいけにえとして選ばれ、死ぬまで踊り続けるのである。《春の祭典》の前衛的な楽譜は、音楽的にはあらゆる規則に反するものであった。

「春の祭典」と言っても、宝塚的「春のおどり」とはまったく違って、近代の理知的啓蒙精神とは真逆の、恐山のイタコ的というか・・・伝統的クラシックバレエでは禁忌の、内股で髪の毛振り乱しダンス。



ロミジュリにおける「愛ちゃんの死」の原点、「神々の土地」の怪僧ラスプーチンを生んだ、ロシアの大地の土俗のエネルギーの深淵を見るような・・・



現代人でも、宝塚の大劇場のショーでいきなりガチでこれをやったら、びっくりする方もいるかもな・・・


伝説のダンサー、ニジンスキー


この「春の祭典」初演で振り付け・主演を務め、センセーションを巻き起こし、バレエ・リュスの中心的なダンサーとして語り継がれるのが、ニジンスキー。




1917年ブエノス・アイレスでの舞台を最後に同バレエ団との関係を絶ち、スイスに落ち着いたが、


1919年に「精神分裂病」(現在の統合失調症)と診断され、その後療養のため各地を転々とし、1950年4月8日ロンドンに没した。


 ニジンスキーは20世紀におけるもっとも衝撃的なダンサーといわれる。彼の跳躍力はすばらしく、『バラの精』を踊ったとき、跳ぶと二度と地上に戻ってこないのではないかとか、空気は重く肉体は軽いなどといった神話化された賛辞が捧(ささ)げられた。


男性的な官能性、野獣性も彼の特徴で、『シェヘラザード』の金の奴隷などはその例である。振付け作品の『牧神の午後』『春の祭典』は、得意な跳躍をまったく使わず、しかもバレエの古典技法を無視したもので観客を驚かせた。

そんなニジンスキーが、完全に狂気に沈む寸前に行われた「最後のダンス」をテーマにしたバレエ作品が、植田先生が留学していたハンブルク・バレエ団で上演された際のプロモーション映像がこちら。




ハンブルク・バレエ団「ニジンスキー」



1919年1月19日、スイス・サンモリッツのホテルのホール。ニジンスキーは最後のダンスを踊る。


自ら「神との結婚」と呼んだ最後のダンスの後、舞台を永遠に去る。29歳。わずか10年の伝説のキャリアの後、


ニジンスキーは狂気の暗黒に沈む。


ニジンスキーにとって、狂気に向かっているのは彼ではなく、世界のほうだった。


伝統的なバレエの筋や物語に対する従属性を破った。


彼にとって、ダンスが物語であり、物語はダンスであった。


ユニークな動きの言語。それは過去にも通じる言葉なのだ。


オーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺された(サラエボ事件)は1914年6月28日、終戦は1918年11月11日。


ニジンスキーに狂気の兆候が表れたのは1916年頃、そして最後のダンスの6週間後、29歳で精神病と診断され、狂気の世界に行ったきり、1950年に60歳で亡くなるまで、こっちの世界には戻らなかった。


公演の主催者であるディアギレフとの同性愛関係の悩み、「春の祭典」の酷評、バレエ・リュスを解雇された後、うまくいかない活動、



そして、戦争で狂っていく世界。



泉鏡花は「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と書き残して自殺した芥川龍之介への弔辞で


玲瓏明透、その文、その質、名玉山海を照らせる君よ。


溽暑蒸濁(じょくじょじょうだく)の夏を背きて、冷々然として独り涼しく逝きたまひぬ。


高き靈よ、しばらくの間も還れ、地に。

と述べたけれど、



跳ぶと二度と地上に戻ってこないのではないかとか、空気は重く肉体は軽いなどといった神話化された賛辞が捧(ささ)げられたニジンスキーは、


狂った世界に背いて、遠く高く跳躍したまま、濁れる地に戻るのを厭ったのだろうか。



ニジンスキー最後の跳躍

これはバレエ・リュスのスターダンサー、リファールが、統合失調症で入院中のニジンスキーを見舞った時の写真です。リファールが『薔薇の精』を踊ると、それまで下を向いて口をつぐんでいたニジンスキーは、急に椅子から立ち上がり、何の前触れもなく飛び上がったのです!


伝説のダンサー、ニジンスキーの、目撃され、記録された「最後の跳躍」。


見てください、この跳躍力。ニジンスキーは特に跳躍のテクニックに優れ、「世界の8番目の不思議」と、まるで都市伝説かのように語られていたとか。この記事と写真を見ていると、私はダンサーとしても、是非その奇跡の跳躍を目にしたかった!という思いに駆られます。