宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

聖飢魔II望海閣下黒ミサが19世紀末ウイーン精神分析になる話



エリザベートガラコンサートの「ガラ」とは「祭典・お祭りのための特別興行」という意味だそうですが、


愛嬌が売りの、苦悩する役を演じてもあまり深刻になり過ぎないという得難い特性を持つ夢咲ねねと、眉間が雄弁な人外の鬼才明日海りおが、一つのステージで同一人物を演じる。


本公演では絶対にありえない、祭りだワッショイ!





祭典。お祭りのための特別興行。ガーラ。「ガラコンサート」

デーモン望海トート閣下爆誕!

※アニヴァーサリースペシャルver.配役

トート:望海風斗、

エリザベート:〈ACT1〉夢咲ねね・〈ACT2〉明日海りお、

フランツ・ヨーゼフ:鳳真由、

ルイジ・ルキーニ:宇月颯、

ルドルフ:澄輝さやと


外部の演劇で、ギリシャ悲劇やシェイクスピア劇を、セリフはそのまま、装置や衣装は現代の風俗で演じることで、劇構造の骨組みや、戯曲の時代を超えた普遍性を強調する演出があるけれど、



見慣れた「エリザベート」も、いつもの衣装を着替えてみると、その劇の骨格がよくわかる。


「エリザベート」に限らず、小池先生の1本もの作品の構造は



第1幕:劇の構造の観客への提示→1幕ラスト、主要人物顔見せで幕

第2幕:登場人物の心理の深化



アニヴァーサリースペシャルver.では、登場人物が見慣れたコスチュームではなく、基本的に黒を基調とした夜会服調の衣装で統一されているのだけれど、


そんな世俗の面々の中に、望海風斗のみ白塗りで”いかにも宝塚的なトート閣下”として爆誕降臨!


デーモン閣下が某ワイドショーに水曜レギュラーとして出演し、例の格好で弁護士の先生と真面目にトークしているのを見るような感覚。(あれも日本人は慣れちゃってるけど、よく考えると不思議な光景だよね)



第1幕の感想:現代のどこかの王室でも有りうる話


ブロードウェイでミュージカル「ダイアナ」が作成されるも、コロナ禍でプロダクションがストップしたそうですが、



Diana: A True Musical Story - Coming to Broadway



もしもブロードウェイで「エリザベート」をミュージカル化したら、たぶんこうなる。



"If" - DIANA: A True Musical Story

My future's my design

My story's finally mine

And I'll light the world

I'll light the world

第1幕は、夢咲ねねのいかにも陽性で自己肯定感が強い感じが、アメリカから欧州の王家に嫁いだキャリアウーマンが、価値観の違いに戸惑いながら、



「大切なことは自己分析。自分の武器を見つけなきゃ。私の美貌は”強み”になる」と自覚して自分磨きに励み、自分探しの旅に出て、世界を照らしに行くお話。とにかく自分、自分なのだな。


20世紀末のダイアナ妃とか、某やんごとなきお方のお話としても成立しうる話である。


第2幕の感想:19世紀末ウイーンで、エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハでなければ成り立たない話

と思っていたら、第2幕はいきなり19世紀ウイーン世紀末、フロイトの精神分析学の世界へ


精神病院での明日海シシィの、ヴィンデッシュ嬢の瞳の狂気に自分を発見し狼狽しつつも、皇后としてのノーブレスオブリージュ(高貴なる者の務め)の慈愛をもって対峙する演技の凄み。



ついこの間までトート閣下を演じていらっしゃった明日海さんがシシィ役をやっているので、


トート=シシィが抑圧している無意識の具現化 


という構図が浮かび上がる。



シシィにとってトートは、シシィにいったん意識化され、のちに抑圧されて再び無意識になった「イドの化け物」だったのではなかろうか。




精神分析の用語で,超自我,自我とともに人格を構成する三つの領域の一つとされ,ドイツ語でエスEsともいう。


イドは性衝動(リビドー)と攻撃衝動の貯水池で,完全に無意識であり,遺伝的要素を主としているが,いったん意識化され,のちに抑圧されて再び無意識となった後天的要素も含む。


善悪や損得の認識を欠き,時間や空間のカテゴリーもなく,矛盾を知らず,ひたすら満足を求める盲目的衝動から成っている。


したがって,イドはいっさいの構造を欠いた混沌の世界と言えるが,それは自我の観点から見てのことで,イドにはイドなりの構造があり,一次過程,快楽原則に支配されている。

”善悪や損得の認識を欠き,時間や空間のカテゴリーもなく,矛盾を知らず,ひたすら満足を求める盲目的衝動から成っている。”



トート閣下じゃないか。


「外伝」が「正典」になっちゃった宝塚版「エリザベート」


「ロミオとジュリエット」は、宝塚2021年上演版で言えば青春が疾走する「A日程」が正典で、「死」がやたら強い「B日程」は外伝的位置づけなのでしょうが、


上演してみるとB日程の「ロミオとジュリエットの「愛の死」の物語」もそれはそれで成立してしまって、でもやっぱり正典あってこその「外伝」。


主人公がエリザベートでなく「死」という宝塚版「エリザベート」は、「ロミオとジュリエット」でいうと、正典(A日程)を知らない人に外伝(B日程)が先に紹介されて、「外伝」が「正典」になっちゃった、という感がある不思議な作品なのかもしれません。