宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

”fff”あがたー「テレマン」って作曲家、音楽室にいたっけ?




〈天上界〉
ヘンデル 作曲家:真耶春人
モーツァルト 作曲家:彩みちる
テレマン 作曲家:縣千


・・・テレマン・・・誰?



↑音楽室の肖像に「テレマン」っていたっけ?


・・・クラシックオタの元カレ(メトロポリタンオペラのライビュに行くのが趣味)が、今同じ職場(部署は別)にいるんだよなー



管理人:ねーねー 元気?


謎の男:おう。久しぶり。昼飯、新しくできたうどん屋行くか?奢るで(笑)


管理人:「テレマン」って作曲家、知ってる?


謎の男知らん。



・・・あがたー 


テレマンの代表曲「食卓の音楽」



テレマン: ターフェルムジーク(食卓の音楽)第2巻 第4曲 三重奏曲:第1楽章 [ナクソス・クラシック・キュレーション #リクエスト]




テレマン: ターフェルムジーク(食卓の音楽) 第2部 - 終結部 ニ長調 TWV 50:9[ナクソス・クラシック・キュレーション #元気]



ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann、ドイツ語発音: [geɔrk/geːɔrk fiːlɪp teːleman](ゲオルク・フィーリプ・テーレマン[1])、1681年3月14日 - 1767年6月25日) は、ドイツの作曲家。



テレマンは後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家で、40歳以降は北ドイツのハンブルクで活躍した。18世紀前半のヨーロッパにおいては随一と言われる人気と名声を誇り、クラシック音楽史上もっとも多くの曲を作った作曲家として知られる。

生涯に書いた曲は4,000曲以上!


バッハが千数百曲、モーツアルトは900曲~1,000曲くらいの作曲数を思うと、4,000曲って半端ないですね・・・


バッハやヘンデルと同時代人で、生前はバッハをしのぐ人気を得ていたということなのですが、(一般向けの楽譜の出版も好調だった)


死後急速に忘れられ、再評価されたのはなんと、1990年代に入ってから・・・


200年以上忘れられ、再評価というのもすごいですね。


ヴェートーベンは「音楽の、音楽による、音楽のための音楽」を確立した


テレマンが忘れられた理由には、当時の音楽というものの立ち位置があるらしく、


当時、音楽は「音楽そのもの」が独立した芸術というわけでもなく、


教会で神に祈るときに、音楽があったほうが雰囲気がでるから
式典や芝居の、伴奏音楽がいるから
お金持ちが食事をするとき、音楽があったほうがご飯が美味しくなるから「食卓の音楽」


作曲家は芸術家・アーティストとして、純粋に芸術作品をつくるというより、別の主目的のためのBGM職人として求められていて、


ほとんどの音楽はその目的が済めば忘れられ、目的のたびにどんどん新曲が求められる、という時代。


(バッハやヴィバルディの祈りの音楽も、式典が済めばそれっきりで、長く楽譜のみが教会の倉庫でホコリをかぶっていたのを後世「再発見」された)


テレマンはその時代の要求にあまりにも適応しすぎ、音楽職人に徹して、作曲家の自我とか、苦悩とかを曲に込めることはしなかった(食事のBGMにそんなものがあったら飯が不味くなる)


そして、ベートーヴェンが音楽とはそれ自体が「恐怖」、「苦悩」、そして「歓喜」という崇高な概念を表現しうるもの、と証明し、その後の音楽芸術を、それまでのステージからさらに高みに引き上げてしまって、


「音楽の、音楽による、音楽のための音楽」を確立した。


職人に徹したテレマンは「時代遅れ」になってしまった。


そして1990年代以降、ソ連が崩壊し、イデオロギーの時代ではなくなり、


それまでどこか残っていた、芸術は重厚長大なものを腕組みしながら黙って鑑賞して蘊蓄を垂れるもの、といった感覚


(例えば自称クラシックオタクが、辻井伸行のコンサートに行く客に「クラシックファンならグレン・グールドのバッハのゴルトベルク変奏曲を聞いてなきゃ」みたいなことを言いだすしゃらくささ。大きなお世話じゃ!)も薄れ、



映画『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』予告編


「メインカルチャー」対「サブカルチャー」といったヒエラルキーもフラットになり、


レンブラントよりフェルメール、


狩野派より伊藤若冲、


の展覧会に観客が集まる時代に、テレマンが再評価されだした。


で、あの縣にテレマン役かー


ウエクミ先生の狙いはなんだろう?


配信を楽しみにしておりまーす。