宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

「聖なる怪物」花總まり FNS「私が踊る時」


FNS歌謡祭 花總まりと山崎育三郎の「私が踊る時」を拝聴いたしました。


お花さまの華麗なる舞台歴はこちらから



『エリザベート』プロモーション映像


「聖なる怪物」がいた


「花總まり」という存在は、「女優」とか「歌手」という言葉で表現できる範囲を超えた、観客に古代の神殿で、巫女が自らを依り代に神を降ろす現場に居合わせたような奇跡を「体験」させることができる、「聖なる怪物」ではなかろうか。


私は3分間、受動的に「歌を聴いた」だけではなく、能動的に「我がこと」として何かを体験したような思いです。


私は3分間、どこにいたのだろう。私はうどん県の狭いアパートで、息子の宿題チェックをしていたはずなのに。


この体験・・・体が覚えている。


1996年、雪組エリザベート大劇場初演と東京宝塚劇場での上演の合間に行われた全国ツアー「あかねさす紫の花」


花總まり演じる少女時代の額田がぱっと走り出でて来た時、私のシナプスは飽和の量を超えた衝撃に焼き切れ、脳みそがショートしたまま、県民ホールの客席は万葉の野原となり、


私は野守となって立ち尽くしていた、あの感覚。


トートはシシィの「自己愛」

史実のエリザベートって、相当「奇矯な」方だったと思うんです。

〘名〙 (形動) 言行がふつうの人と変わっていて激しいこと。ふうがわりなこと。とっぴなこと。また、そのさま。

先日、紅子ちゃんとの酔っ払いトークでこんなことを言いましたが、

管理人:宝塚版『エリザベート』のテーマは、副題のとおり「愛と死の輪舞(ロンド)」


”死神”じゃなくて、”死” 。 ”死”が”人”を愛する。 


では ”人” が ”死” を ”愛する” ことはあるのだろうか?


「イケメン”死神”が、歌うまかわいこちゃんに惚れてストーカーする話」じゃないのよ。


禁じられた愛のタブーの話なのよ。


私ね、正直、星風まどかが、子供をほったらかして旅行三昧したり、1日に玉子を3個とオレンジ2つしか食べないで、1日8時間歩き続けて3時間器械体操して、美女の写真を2万5千枚集めたりしそうなキャラに思わないのよ。

シシィって「姑にいびられる可哀そうな嫁」だけではすまない、相当強烈なキャラですよねえ・・・



トートとは、シシィとは別人格のイケメン死神というよりは、


エリザベートの自己愛(美へのこだわり) と 死への憧れ(キリスト教徒としてはタブー)」の象徴


美しい死神は自己投影、もう一人のエリザ



かのエリザベス1世は「朕は国家と結婚した」と言ったそうですが、花總さんが「私が踊る時」を歌うと、


「私は自分と結婚した」宣言


に聞こえるわ。


1人でも 私は踊るわ 踊りたいままに 好きな音楽で


踊るときは 命果てるその刹那も 独り舞う あなたの前で


「聖なる怪物」サラ・ベルナール



「サラ・ベルナールの世界展」開幕


「聖なる怪物」とは、コクトーが19世紀の女優サラ・ベルナールを評した言葉です。


サラは「椿姫」「トスカ」「サロメ」など数々の当たり役を持ち、「ハムレット」では男役も務めたそうで、


ベルエポック(ピガール狂騒曲の時代)という、一つの時代の空気を代表する女優であった方。


彼女の残した言葉を、現代の聖なる怪物、花總まりを称えるため引用させていただきます。

ひとたび幕が上がれば、俳優は自分ではなくなる。役に入り込み、作品や観客のものとなる。

Once the curtain is raised, the actor ceases to belong to himself. He belongs to his character, to his author, to his public.


命が命を生み、エネルギーがエネルギーを生む。自分自身を投じることによって、人は豊かになる。

Life begets life. Energy creates energy. It is by spending oneself that one becomes rich.

サラ・ベルナールの名言・言葉(英語&日本語) | 名言+Quotes