「死」と「トート閣下」の違い
真風氏の「死」には、まだトート閣下的、鎌を持っている死神のような、擬人化された死、人格らしきものがあった
愛月氏の「死」は、死の、象徴、寓意。
西洋の「ヴァニタス」画で、咲き誇る花々、美味しそうな御馳走の並ぶ食卓に、
そっと置かれた頭蓋骨の、眼孔の奥の闇のような、虚無。
空の空なるかな 虚無の虚無なるかな すべては、無
旧約聖書「コヘレトの言葉」
愛月さんの「死」で印象的だったのは、
ヴェローナの雑多な街中で、エネルギーの有り余った若者たちが、我こそが世界の王だと誇らしく歌い踊る背後を、
「死」はただ、ひたひたと、通り過ぎる。
トート閣下のように、情熱的に迫ってくるのではない。特に強いスポットが当たるでもない。
水が寄せてくるように、「死」は静かに、確かに、段々と迫ってくる。
舞台の上では、音楽もダンスも続いているのだけれど、
音楽が急に遠くなり、喧騒が静まり、
聞こえるはずの無い死の足音が、確かに聞こえたように錯覚し、
心が、凍り付く。
「ヴァニタス」とは?
ヴァニタスの原義は「虚ろ」を意味し、「人生の虚しさ」や「地上のあらゆるものの儚さ」を表しています。ヴァニタスの根底には「死を想え/死を忘れるな(メメント・モリ)」の思想がありました。
そのため、「メメント・モリ」が強調された静物画には、頭蓋骨や蠟燭、砂時計や懐中時計などが時の経過を表し、覆された杯などの食器は虚ろさを示唆するために描かれています。
宝石や硬貨など財宝的なものは、死が持ち去る現世の富や権力を象徴し、花が描かれている場合は人生の短さを表しています。そして、ひっくり返った豪華な銀製品や割れたグラスなどは、食事が突然中断されたことを表し、それすなわち突然訪れる人生の終焉といった「儚さ」を想起させるのです。
日本で、これに近いものというと、一休さんの頓智話で、
めでたい正月の巷に、一休は髑髏(どくろ)を竹の棒の先につけ、「このとおり、御用心」と声高らかに叫んであらわれた。
「だれもがいつかはこのようになる。明日もこのまま無事だと決めてかかっている人こそ用心せよ」というわけである。
その真意は、髑髏を通じて世の無常を知らせ、ものごとの本質(あらゆる事物や現象はすべて実体ではない=色即是空)を教える説法であった。
ラスト、霊廟に横たわるジュリエットへの、ロミオの最期のセリフを引用させていただきます。
ロミオ:忌まわしい、地上で最も愛すべきものに食い飽きた「死」の腹よ、
「死」は、お前の蜜のような息を吸い取った。
形を持たない「死」が、お前に魅せられて、
あの肉が落ちた、忌まわしい怪物は、お前をここに、自分の恋人に囲おうとしているのだろうか。
そんなことがあってはと、私はここにお前と残り、この暗い宮殿に住処を定めて、いつまでもお前と暮らすのだ。
幸せが待っていると信じて薬を飲んだジュリエットが見つけた、まだ暖かいロミオの亡骸。
ジュリエット:まだ、瓶に毒が残っているかも!
けち!一滴も残ってないじゃない!
唇に毒が残っているかも!
私を殺して。あなたのキスで。
・・・あなたの唇、あたたかい。
ナイフよ。この胸がお前の鞘。ここでお眠り。
吉田健一 訳
小池先生、原作のこういうセリフをバッサリカットしているんだよな・・・