宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

B日程 愛の「死」が強烈過ぎて「愛」の存在意義とは





(注)私は小池修一郎先生の作品を見ると、なぜか「ナショナルジオグラフィック」的な話を始めるたちです。





赤い客席に私のアバターを置きたい


無観客配信で、お客さんがいない客席に、「お客様への案内アナウンス」を流してくださってありがとうございました。


ああ、


こちらから向こうは、こんなにはっきり見えるのに、



こちらにはこんなにも、舞台の熱量がストレートに届いているのに、



なぜあちらからは見えないのだろう。



あの赤い客席に、私のアバターを置きたい!


舞空ジュリエットの超個人的感想


今までさんざん「ロミオとジュリエット」について書いてきて、そういえば舞空ジュリエットについてほとんど言及していないのですが、



実は、超個人的な感想はですね。









カマキリの交尾には、ときに危険が伴う。カマキリの雌が雄の頭を噛みちぎり、体のさまざまな部位を食べたという報告例は少なくない。


興味深いのは、雄にとって、自分が食べられるという結末には良い面もあるらしいということだ。2016年に発表された研究によると、雌のオオカマキリは交尾相手を食べる際に重要なアミノ酸を摂取しており、雄を食べた雌は通常の2倍の数の卵を産むという。


A日程は王道の「ロミオとジュリエット」で、若い2人のすれ違いのロマンス悲劇として見ていられるのだけど、


B日程は、カメラが2番手である「愛ちゃんの死」を頻繁に映すので、「死」の印象が強くなり、ジュリエットの「愛」も、ロマンスというよりは、死」に対する「生(性)」の本能的な生々しさが前面に出てくる。


舞空ジュリエットを見ていると、16の乙女が、恋に恋するというよりは、ヒトのDNAに刻まれた「本能」というプログラムが、リミッターの使い方も知らないままに発動しているのを見るようで、



雌カマキリと目が合った気がして怖い。(ごめんなさい 🙇)



ジュリエット、ロミオは愛をひっかけるための釘なの?


この作品において、ジュリエットは16歳、ロミオの年齢は明示されていないけれど、18歳前後かな。



ロミオとジュリエットは、宝塚の本公演における主役コンビの年齢設定としては、最も若い部類だし、出会ってから死ぬまで5日も無いのも、最短の部類でしょう。


正直、ジュリエットにとってロミオは、パリス伯爵との縁談から逃げたい!私も恋愛結婚したい!と「愛をひっかけるための釘」を探して焦っていた時にぶつかった「つり橋効果」でときめいていて、数か月も付き合っていればいろいろ見えてくるでしょう。




不安や恐怖を強く感じている時に出会った人に対し、恋愛感情を持ちやすくなる効果のこと。


この効果は、外的な条件で興奮していることと、恋愛感情により興奮していることを混同することから生じるものとされている。


私は大人になってしまった。恋をして、恋には必ず終わりが来ることも、教科書でなく体験として知ってしまった。


ロミオとジュリエットは、恋の喪失を知らないままに死んで、永遠を手に入れた。



中島らも著「愛をひっかけるための釘」より


恋愛は人を高みへ押し上げるが、その高さはそこからすべてのものが見下ろせてしまうような冷酷な高さでもある。


この世ならぬ至福の中に自分があればあるほど、いつかその眩暈に似た幸福に終わりが来るであろう予感も確固たるものになってくる。


始まらなければ終わることもないが、恋愛という音楽が鳴り始めてしまった以上、そこにはかならず終わりがくる。永遠にそれが響き続けることはない。


(中略)


それは安定した永劫の「無」の中にあってほんの一瞬の、おそらくは何かの手違いによって引き起こされた「有」の出現であろう。


礼真琴は「はじめに音楽ありき」を思い出させてくれる



どうして歴史のうえに、言葉だけでもう十分なはずなのに、音楽まで生まれたのか?



と思っていたら、人類はまず「うた」ありきで、その後「言語」が生まれたらしい。



歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化
歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化
早川書房

われわれの生活に欠かすことのできない音楽。この音楽は、いつごろ、どのようにして人類の歴史に誕生したのだろう。


音楽は進化の過程でことばの副産物として誕生したというのが、これまでの主要な意見であった。


しかし、ミズンは、初期人類はむしろ音楽様の会話をしていたはずだとし、彼らのコミュニケーションを全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的な「Hmmmmm」と名づけた。


一方、ホモ・サピエンスではより明確に意思疎通するために言語が発達し、音楽は感情表現の手段として熟成されてきたものと考えられる。


「はじめに言葉ありき」でなく、「はじめに音楽ありき」


「音楽」そのものが「会話」だったのに、いつしか「言葉」が凌駕し、音楽は副次的な、感情表現の「手段」となってしまった。



礼さんは、そんな頭でっかちになった現代人に、音楽の根源的な力、愛の会話を音楽で交わしていた時代の記憶を呼び覚ますことができる、「音楽の子」である。



望海さんは日本語の「歌詞」を「感情」に変換する術に優れ、


礼さんは「音楽そのもの」が「感情」となるのだ。