宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

オクタヴィアヌスの夢オチ?実は死んでいたヒロイン設定の謎を考察する



「ヒロインは実は物語の序盤で死んでいた」設定の衝撃

花組公演東京宝塚劇場千秋楽を、満員の観客が見守る中迎えられましたこと、おめでとうございます。


「アウグストゥスー尊厳ある者」の配信も終了したので好き放題申しますが、「ヒロインは実は物語の序盤で死んでいた」という設定はびっくりしましたよねー。


いくらなんでも他にやりようはあっただろうに、なぜにこんな…


個人的に興味深かったのは、本作はいかにも宝塚ファン好みのフランス革命とか禁酒法時代ではない、文化的・心理的に遠い古代ローマを舞台にして、


実は「桜嵐記」並みに日本的な、あまりに日本的な劇の構造なんですよね。



夢幻能に見る「実は死んでいた主人公/ヒロイン」



旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をします。


その人物は他人事のように物語をしてから消えるのですが、実はその物語における重要な存在であり、仮に現実の女性や老人などの姿をとっているにすぎないのです。


ここでシテがいったん舞台から退場することを「中入(なかいり)」といいます。その後、ワキが待っていると、今度は先ほどの人物が、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、多くの場合クライマックスには舞を舞います。


「夢幻能」という名称は、霊的な存在があらわれたのがワキの夢の中とされていることにもよっています。

世阿弥が活躍したのは、南北朝の争いの傷跡も生々しい室町幕府3代将軍足利義満の時代。現代よりも、死や異界は身近なものでした。


夢幻能における主役は、死してもなお、あの世で争うことを止められない源平合戦の武将や、叶わなかった恋心を抱えて死んだ女。


抱え続けた思いを旅の僧に打ちあけることで、救済されて昇天したり、戦いを止められぬ修羅の道の地獄を訴え続けるまま夜が明けたり。


瀬戸かずやさん演じるアントニウスは、野心に燃える男というよりは、「アレクサンドロスの夢」という名の、理想と言うより悪夢と呼ぶべきかもしれないものに突き動かされている男の切実を、その威風堂々たる男役芸の集大成で魅せてくれました。


西洋では例えばシェイクスピア劇は、ハムレットと亡き父の亡霊の対話があるのですが、亡霊はハムレットの前にいきなり出ずに、まずハムレットの部下の前に現れて「亡き先王の幽霊が出るらしいぞ」と噂を立てたり、用意周到である。ハムレットも「お前が本当に幽霊かどうか試してみよう」とか言い出すし。


「アウグストゥスー尊厳ある者ー」では、ポンペイアはそういう前振り一切無しで、オクタヴィアヌスと会話できるのな(笑)こういうところに、死生観や「あの世」観の文化の違いが見えて興味深い(笑)


初見ではその設定にびっくりしたのですが、再見すると、華さんは「ああ、この時に亡くなったのだな」というシーンの前と後で、明らかに歩き方や、生者への声をかける時の距離感を変えている。


舞台全体に、衣装が絢爛な割に照明が冷たく青みを帯びていて、登場人物たちも生きている設定でも、どこか赤い血でなく青い血が流れているような、この物語も実はアウグストゥスの死の寸前の走馬灯のような印象があって、


新作能『羅馬(ローマ)ー始皇帝秘史ー』として楽しめました(笑)