轟悠に「ありがとう」と言う日が来てしまった
轟悠さん、宝塚ご卒業、おめでとうございます。
・・・
ついに轟悠に「ありがとう」を言う日が来てしまった。
嫌なんです。貴方が行ってしまうのが。
私が貴方に会ったのは、私が人生で初めて宝塚の生の舞台に触れたのと同じ日でした。
1996年4月29日、香川県県民ホール。あなたは地方公演「あかねさす紫の花」で中大兄皇子を演じられていましたね。
幕が上がった瞬間、客席は万葉の野原になって、私は野守になって。
あれからもう四半世紀たつのですね。あの時私の身体の中を駆けた電流の記憶はいまも鮮明で、でも何を見たのかはずっと思い出せなくて。
あの時、あなたに頂いた宿題がありますね。
私はあの時何を見たのか。
宝塚か。
「宝塚って何なんだ」
私は25年たってもさっぱり答えが見つからないのですが、25年目の区切りに、自分なりの宝塚論、男役論を整理してみたいと思います。
轟悠は「男のロマン」ならぬ「人間のロマン」を演じられる人だった
男には「男のロマン」があるという。
女には「女のロマンス」があるという。
「ロマン」と「ロマンス」、似ているようでちょっと違う。
そもそも男の「ロマン」とは、
1 「ロマンス1」に同じ。
2 小説。特に、長編小説。
3 感情的、理想的に物事をとらえること。夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと。「ロマンを追う」「ロマンを駆り立てられる」
女の「ロマンス」とは
人情の機微を描く架空の物語,または若い男女の,多くは幸せな結末を予想させる恋愛を扱う歌。
男の夢は冒険、女の夢は恋愛。
この俗世では、「男のロマン」は女に理解されず、「女のロマンス」に男は鈍感。
男はロマンティスト。憧れを追いかける生物。
女は夢の無いことばかり 無理に言わせる魔物。
そのすれちがいゆえに、この世に男女の性格の不一致は尽きないわけですが。
宝塚の男役とは、女が男を演じる、実在する虚構。
男役とは、女が男のロマンを演じることで、本来相容れぬロマンとロマンスを統合した稀有な存在だと思うのです。
轟悠は「人間のロマン」を体現できる男役であった
今では、「男のロマン」という言葉も時代遅れかもしれません。
轟悠は、男役という「実在する虚構」を突き詰めて、「人間のロマン」を体現する表現者となった。
轟悠の専科時代演じた役で印象的だったのは、
『黎明(れいめい)の風』 - 白洲次郎
『ドクトル・ジバゴ』 ユーリイ・アンドレーヴィチ・ジバゴ
『チェ・ゲバラ』(日本青年館・ドラマシティ) - エルネスト・ゲバラ
終戦後、GHQに対しても忖度せず「筋」ー“プリンシプル”を通し、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白州次郎。
「戦争と革命の最中でも、人間は愛を失わない」内容でノーベル文学賞を授与された『ドクトル・ジバゴ』
アルゼンチンの裕福な家庭に生まれ、医師として、アルゼンチン社会のエリートとして生きる道を捨て、よその国であるキューバ、そしてボリビアの革命の為に戦ったチェ・ゲバラ。
個人の損得を超えて、プリンシプルー筋を通した、カッコよすぎて嘘みたいな男たちを演じて、「そうは言っても現実は」と思わせず、ウソ無く「カッコいい!」と思わせた轟悠。
こんなつまんない現実のほうが嘘だ!人間はロマンのために生きているんだ!と思わせてくれた轟悠。
貴方は、世の中にカッコイイ俳優はたくさんいるのに、なぜ宝塚の「男役」と言う存在があるのか、という問いに、身をもって応えてくれました。
本当に、今まで、ありがとうございました。