宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

このまま宝塚ファンを続けていてよいのだろうか


ファンも意識改革が必要なのかもしれない


個人的に、急な出張でバタバタしており、今日(11月12日(日))、香川県に帰ってまいりました。


ここ最近は鉄道利用の西日本方面への出張ばかりで、飛行機を利用した出張は久々(コロナ禍以来?)でした。


コロナ禍前は、荷物を預け入れる時は航空会社のカウンターでお願いしていたのですが、初めて自分で自動手荷物預け機を利用して預けることになり、操作に四苦八苦しました。


正直、「昔は、航空会社の人があれこれサポートしてくれて楽だったのに…」と思ったのですが、


建設業や宅配事業も、時間外労働の規制が進み、


”労働者が安い給料で働き、長時間サービス残業することで、お客さまに安価で快適なサービスを提供します。”


という労働モデルは、もう成り立たないよね、お客も少しは不便を享受しなきゃね、とまあ納得しました。



11月11日(土)の朝、ホテルで視聴したTV放送で、宙組の自死されたジェンヌの御遺族の想いを伝えるニュースを知りました。


このニュースを知ったのちに、宝塚ファンを続ける事に、道義的責任はあるのか。



劇団側の報告がまだ発表されておりませんが、劇団がジェンヌに過労死ラインを大幅超過するような、常軌を逸した長時間労働を強いていたことは、ある程度のファンには周知の事実だったでしょう。


宝塚ファンとして悲しいのは、この長時間労働は、


「お客様に、安価で完成度が高い舞台を提供する」


「原則新作の舞台を、本公演・外箱含め年間20本以上お届けする」


ために行われていただろうことです。


私は、宝塚歌劇団は、東宝ミュージカルや劇団四季や歌舞伎の半額~7割くらいのチケット代で、これらの劇団より出演者数やお衣裳や装置がずっと豪華な舞台を、配信をチェックするだけでも月に4~5回(新人公演を含む)も見ることができることが、当たり前だと思っていました。


舞台は神聖なもので、舞台に奉仕するために、ジェンヌさんが夜遅くまで働いていても当然、という発想がどこかにありました。


「寝ているヒマがあったら、ダンスや歌のレッスンをする」


ことは当たり前の美徳 である、と。


宝塚大劇場が、人口22万人の東京の有楽町から見れば山間の僻地に存在していても、毎日2,600席を完売してあたりまえ、チケットが売れないのはスターの人気が足りないせいだ、と。



考えてみれば、天下のブロードウェイでさえ、完全新作の上演までには、地方劇場でのトライアウトと修正を重ねたうえで、ブロードウェイで通用する完成度に仕上げるのが当たり前。


再演を繰り返した演目ではない新作で、数日間の舞台稽古で80人の出演者の出入りが完璧にできなくて当たり前。


準備期間を考えれば、宝塚大劇場で、金曜日を初日にせず、前の演目の千秋楽が日曜日なら次の演目は土曜日初日にする。


あの金曜日、その1日がミスの修正のための「予備日」であれば、ひょっとしたらあのジェンヌの命は救われたかもしれない。


なぜ劇団員にチケットノルマが課されているのに、東京では「チケットが足りない!」状態が当たり前なのか。


人口規模に基づく需要と供給を考えれば、本公演について人口の少ない宝塚大劇場では4週間公演し、チケット争奪戦が続く東京宝塚劇場では6週間公演するスケジュールを基本にしていれば、「宝塚大劇場のチケットが売れていない!」ノルマも少しは改善するかもしれない。


ファンに道義的な責任は無くとも、


”ジェンヌが安い給料で働き、長時間サービス残業することで、お客さまに安価で快適な舞台を通年で提供する。”


ことで成り立つビジネスモデルは「当たり前」ではない、という意識改革は必要だと思います。