宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

祝『アナスタシア』初日革命で宝塚にバレエとモロゾフがやってきた


歴史認識は時代により変わる


歴史についての認識、例えば「そういえばフランス革命ってなんだったんだ」という認識は時代の変化につれて大きく変化しており、


宝塚でも「スカーレット・ピンパーネル」初演の時、小池修一郎先生は


「宝塚でフランス革命といえば、オスカルが命を賭して戦った「自由・平等・博愛、革命ばんざい!」なのに、


革命の悲惨な現実、ロベスピエール独裁となったフランスを茶化すような作品は宝塚ファンに受け入れられるのだろうか?


と不安で夜も寝られなかったそうです。


ところが「スカーレット・ピンパーネル」は大好評、今では宝塚の大切なレパートリーになったわけで、


宝塚ファン(日本人)のフランス革命観も時代によって変わってきた、ということでしょう。


と思っていたら、ついには宝塚でロベスピエール本人を主役にした芝居をやるんだから、


思えば遠くへきたもんだ。


ロシア革命ってなんだったんだ

ウエクミ先生は「世界史のできごと○○周年」がお好きなようで、『フォルテッシモ』は本来ヴェートーヴェン生誕250周年の2020年に上演するはずでしたし、


「神々の土地」が上演された2017年は、「ロシア革命100周年」でした。


同じく宙組で、ロシア革命103周年の11月7日、『アナスタシア』初演、という奇遇であります。


ところで、「ロシア革命」ってなんだったんでしょうね。


ロシア革命について共産党が語る


 ロシア革命が起きた20世紀初めの世界は「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代」(日本共産党綱領)でした。世界中の圧倒的地域を植民地として支配していた英、仏、独、露などの「列強」は、その再分割をめぐって、第1次世界大戦(1914~18年)を引き起こしました。


 こうしたなか、皇帝(ツァーリ)による専制体制が敷かれていたロシアでは、「平和とパン」を求める国民の要求が高まり、1917年3月(旧暦2月)、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で労働者のストとデモが起き、これをきっかけに帝政が崩壊、臨時政府が樹立されました(「二月革命」)。


 しかし、臨時政府は戦争を継続したため、即時講和・食糧・土地を求める労働者・農民の運動の高まりの中で、レーニン(1870~1924年)が率いるボリシェビキ(ロシア社会民主労働党内の革命派)の指導のもとで労働者・兵士らが11月7日(旧暦10月)、武装蜂起して臨時政府を打倒。労働者・兵士・農民ソビエト(ロシア語で「会議」の意)が権力を握りました。


 「十月革命」によって、人類の歴史ではじめて資本主義から離脱して社会主義への道に踏み出そうという試みが始まりました。

日本共産党によると、その後のレーニンは偉大であった、全部スターリンが悪い!的なスタンスらしい・・・


管理人は共産党員ではありませんし、宝塚版で政治の話をする気はありませんが、


ロシア革命からのソビエト時代は、内戦と飢餓と粛清(処刑と強制労働による実質死刑)により、凄まじい数の犠牲者(数百万人とも数千万人とも)を出しました。アナスタシア一家の悲劇さえ、数ある悲惨のほんの一例であった。


ソ連崩壊をリアルタイムで見ていた管理人の記憶では、当時は「ロシア革命」とは「壮大な社会実験の壮大な失敗に終わった」という意見が多かった記憶があります。


プーチン政権が、政府主催のロシア革命100周年記念行事を行わなかった、ということが、今のロシアによるロシア革命への評価なのでしょう。




1960年代にロシア革命をフランス革命と並ぶ歴史的革命だと教科書で学んだ旧い世代、そして自由の結果である貧困に苦しむ人々は、今のところこの劇的な解釈の変化にため息をつくしかない。


もちろん歴史は後世、いや後世に支配権を握ったものが決める。だから、もう一度もとの解釈が復活する可能性はある。


実はフランス革命がナポレオンの敗北によって終焉を迎えたころ、フランス革命の解釈は大きく変化した。王政復古の勢いを借りて、フランス革命は不幸な暴徒による革命となり、とりわけロベスピエールがその不幸の象徴となったのである。


しかし、1830年7月革命によって、また形勢は逆転する。その後に続く革命の結果、フランス革命=ブルジョワ革命説が定着するのである。


宝塚歌劇及び神戸らしさを語るうえで欠かせないものと、ロシア革命とは意外な関係があったらしい。


澤田氏によれば、白系ロシア人が生計を立てる手段としては、まず羅紗(らしゃ)や洋服の行商があった。和服から洋服へ日本人の普段着が移行するにあたって、白系ロシア人はこれを促進した。バレエ、ピアノ、バイオリンを教えて優れた弟子を育てたのも彼らだ。


エリアナ・パヴロワは、日本バレエの母とも言われている。1913年に開校したばかりの宝塚音楽学校で、ダンスや歌の教鞭をとった人もいた。


スポーツ界では日本で初めての外国出身プロ野球選手となったヴィクトル・スタルヒン、製菓業界では高級チョコレートを日本にもたらしたフョードルとヴァレンチンのモロゾフ父子やマカール・ゴンチャロフといった人々が有名である。


宝塚大劇場のお土産の定番のゴンチャロフ。ゴンチャロフ氏は、ロマノフ王朝の宮廷菓子職人だったとか。アナスタシアもゴンチャロフの作ったお菓子を食べたのかもしれませんね。


小林一三氏、宝塚音楽学校の講師に本物の西洋を知るロシア人を招聘していたんですね・・・その土台があったから「モン・パリ」をやれたんだなあ。


他にも、管理人の永遠の憧れ、SKD(松竹歌劇団)のスタア、水の江瀧子さん(通称ターキー)



↑この衣装、戦前の制作だけどすごく「シュッ」としてるでしょ♪


ターキー、帝国ホテルで亡命ロシア人が開業していた仕立て屋で、燕尾を作らせたそうです。

↑ターキーについてはこちら

実は歌舞伎にもロシア革命の影響が


バレエ『瀕死の白鳥』
マイヤ・プリセツカヤさんは「王家に捧ぐ歌」初演で振付を担当されました。



Maya Plisetskaya - Saint-Saëns - The Dying Swan



大正時代、ロシアから亡命したバレリーナが日本でバレエ公演を行い、衝撃を与えました。


その結果、歌舞伎の舞踊が



坂東玉三郎、世界中で大絶賛の伝説の舞台!シネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』予告編


舞踊「鷺娘」は江戸時代からある演目ですが、明治時代までは踊りのラストは伝統的ないわゆる見得をきって幕、だったのが、


大正時代、バレエが日本に紹介されて後は、白鷺が雪の中静かに死にゆく演出に変わったそうで。


こんなところにも、革命で追われたロシア人亡命者の残した足跡があるんですね。