『fff』「謎の女」元ネタ?『モーツアルト!』感想
東宝版「モーツアルト!」配信を視聴いたしました。
「才能が宿るのは肉体なのか?魂なのか?」
「才能が宿るのは肉体なのか?魂なのか?」という深遠なテーマをベースに、その高い音楽性と重層的な作劇で“人間モーツァルト”35年の生涯に迫り、2002年の日本初演以来、日本のミュージカルファンを魅了し続けている本作
才能を開花させ、名声を得たヴォルフガングと、彼の前に立ちはだかる権力者コロレド大司教による重厚なミュージカルナンバー「破滅への道」も追加され、人間ヴォルフガングと彼の中に宿る“才能の化身=アマデ”との葛藤や、天才ゆえに周りから理解されない孤独が、より深みを増して描かれます。 初演から約20年を経ても進化をつづける、「M!」の終わりなき挑戦が始まります。
正直、脚本/歌詞ミヒャエル・クンツェ 音楽/編曲シルヴェスター・リーヴァイの「エリザベート」の黄金コンビと言えど、音楽家モーツアルトの人生を、モーツアルトの音楽をほとんど使わずに描くとはどういうことだろう?と思っていたのですよ。
映画「アマデウス」では、「凡才」サリエリが「天才」モーツァルトに嫉妬するという構図で、我々凡人側から天才モーツアルトを見ている構図でした。
東宝版の「モーツアルト!」を初めて拝見したのですが、冒頭いきなり墓場のシーンで、モーツァルトの信奉者が彼の才能の秘密を解き明かすため、天才の頭蓋骨を検証しようと埋葬場所を探すも、妻コンスタンツェが「どこに埋葬したのかわからなくなっちゃった!」というシーンから始まります。
サリエリは出てこず、代わりにモーツァルトが成人後(以下青年アマデウス)、神童と呼ばれたころの子供の姿のアマデウス(以下子アマデ)が、ずっと傍らに付き添っています。
まるで「fff」における「謎の女」のように。
成人したアマデウス:生身の人間としてのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
子アマデ:彼の「才能」の化身
劇中でも、彼の雇い主であるレオポルド大司教が「天才の秘密」を解き明かしたがっていて、亡くなった天才の脳のホルマリン漬けをコレクションしているシーンがあり、青年アマデウスの「才能」も自分のコレクションとして囲いたがっているのに反発している、という構図で、
東宝版は、生身の人間の「才能」についての物語でした。
私は人生で1曲も作曲したことはありませんが、
モーツァルト: アイネ・クライネ・ナハトムジーク - 第1楽章[ナクソス・クラシック・キュレーション #ゴージャス]
モーツアルトの「魔笛」
歌劇「魔笛」 第2幕 夜の女王のアリア 「復讐の心は地獄のようにわが胸に燃え」 [ナクソス・クラシック・キュレーション #ファンタジー]
こんな曲が、下ネタを連発するわ、女癖悪いわ、博打に狂うわ、礼儀作法も挨拶もなっとらん兄ちゃんからスラスラ出てきたら、
そりゃあ嫉妬するわなあ・・・
サリエリの「魔除け」
サリエリ: 序曲「魔除け」[ナクソス・クラシック・キュレーション #コミカル]
むごい・・・素人が聞いても、比べてみたら「悪くはないが・・・」としか言えねえ。
何が違うのだろうなあ・・・
「才能は天からのギフテッドか?チャレンジドか?」
全てを音楽にのせ語ろう
無礼で礼儀知らずだけど、そのままの僕を愛して欲しい
「僕こそ音楽(ミュージック)」だ。
”無礼で礼儀知らずだけど、そのままの僕を愛して欲しい”と言うけどさ・・・
10で神童、15で才子、20過ぎればただの人、というけれど、彼の音楽の作品の完成度でいえば、神童時代より成人してからのほうが上である。
天才は、天才ゆえに、周りの凡人に理解されない とよく言うけれど、
青年アマデウスの仕事の「できなさ」は、音楽がつまらないのではなく、
皇室の方の前でタメ口でしゃべらないとか、下ネタを言わないとか、思ったことをそのまんま言わずにせめてオブラートにくるむとか、そういうことが「できない」のである。
たぶん、わかっていて「あえて反抗している」のではない。
青年アマデウスはあれだけの音楽をすらすらと淀みなく、息をするように書けるのに、「ふつう」の凡人が「ふつう」にやっていることが「わからない」ゆえにこの世に生きづらい。
普通の人が普通であるために、脳にリミッターをかけているのを、アマデウスはそのリミッターが欠落していて、凡人が「空気を読む」とか「気を遣う」ために使っている脳のリソースを、音楽に全振りしているのではなかろうか。
でも、凡人がどれだけ言葉をつらねても語れないことを、ほんの数小節で語れてしまう。
真相は永遠に不明ですが、青年アマデウスが今生きていたら、ひょっとして何か診断名がついたのではなかろうか。
青年アマデウスにとって才能とは、天から与えられた"Gifted"というよりは、「障がいを持つ人」を表す新しい米語「the challenged (挑戦という使命や課題、挑戦するチャンスや資格を与えられた人)」に近いものだったのかな。
1幕ラスト、子アマデは、青年アマデウスの腕に羽根ペンを刺し、血をインクに曲を書く。
2幕ラスト、病に侵され弱り果てた青年アマデウスは、注文された「レクイエム」を書く血のインクが「枯渇」し、腕にペンを刺すも「もう1滴も血が出ない」
子アマデが、羽根ペンを青年アマデに突き出し、子アマデと青年アマデ2人して、自らの胸に羽根ペンを突き刺す。
アマデウスの人生は、才能を俗世に生かすというより、俗世を生きるには障害ともいえる「才能という運命」を同伴者として、35年の短い一生を駆け抜けた。
「fff」の「おれは、お前(運命)を受け入れるよ」は、このラストシーンへのオマージュだったのであろうか。