ラスト、駆けだした半次と清吉の結末ー『川霧の橋』感想
江戸切絵
『川霧の橋』
-山本周五郎作「柳橋物語」「ひとでなし」より-
原作/山本 周五郎
脚本/柴田 侑宏 演出/小柳 奈穂子
前半のテーマ:素直になれない意地っ張りたち
宝塚の『川霧の橋』は、前半の江戸の大火のエピソードまでは「柳橋物語」を基にしています。
前半のストーリーは、宝塚スカイ・ステージの番組解説を引用させていただきます。
隅田川近くの大工の棟梁の家、杉田屋では、次の棟梁として三人の候補の中から幸次郎(剣)が選ばれ、残る二人、半次(涼風)と清吉(天海祐希)は後見人とされる。
半次は分をわきまえるが、清吉は不服として上方へ飛び出し、その出発前に幸次郎が密かに慕っている研ぎ職人・源六の孫娘、お光(こだま)に先手を打って、夫婦約束を交わしてしまう。
杉田屋夫妻は源六にお光を後継ぎの幸次郎の嫁にと申し込むが、源六は断り、幸次郎自身もまたお光から先約があると断られてしまう。
やがて江戸を大火が襲い、幸次郎は源六とお光を助けに行くが、源六は死に、二人も川に流され、幸次郎はお光を見失ってしまう。
このお話は、前半は「柳橋物語」ベース、江戸の大火後の後半は「ひとでなし」ベースと別の作品を基にしているため、
前半と後半で、物語の主題が変わってきます。
幸次郎は、何年も前からお光に惚れるも、その思いを伝えられないまま年月が過ぎる。
もたもたしているうちに、棟梁になれなかった清吉が、幸次郎への当てつけのようにお光と夫婦約束を交わしてしまう。
お光は、まだ人を愛する気持ちがわからない。
清吉の「待っていてくれ」の言葉に、必要とされることが嬉しくて、自分も清吉を愛していると思ってしまい、不器用な幸次郎の求婚を断ってしまう。
素直になれない意地っ張りたち。
「言わなくてもわかってくれよ」な男と、「言われるとその気になる」まだ自我が目覚めていない女のすれ違い。
昔の日本人やねえ。
そして、原作「柳橋物語」では、幸次郎は江戸の大火の際、お光を助けようとして川に流され、そのまま亡くなってしまうのです。
宝塚で、主役が前半45分で亡くなってはお話になりませんので、後半のエピソードは「ひとでなし」という別の短編からとられています。
後半のテーマ:スラム街の聖者たち
幸次郎は江戸の大火の後、お光を見失い、やむなく杉田屋の棟梁が勧める縁談を受け、所帯を持った途端、記憶喪失のお光を発見する。
幸次郎はそもそも原作では前半で亡くなっているのを、宝塚向けに生きていた設定にしているのもあって、あまり動けず、お光の苦労を遠くから心配し、こっそり援助するしかない。
半次も、密かに慕っていた大店のお嬢さんが、親を亡くして夜鷹(路上で客をとる下級娼婦)になってしまったのを見つけるも、救う術がない。
上方から戻った清二はお光と結婚するも、大工の棟梁の養子となって上級国民?となった幸次郎とわが身を比べて、自分は低賃金のワーキングプアに甘んじていることに文句タラタラ。
仕事を辞め、お光に暴力を振るい,しまいには石川島送り(収監)、どうしようもない悪行三昧。
ある日、大川のほとりで幸次郎とお光が出会うが、幸次郎の妻の前でお光は気丈に振る舞い、ひとでなし清吉のことも悪く言わない。
お光は、亭主が逮捕され、お針子仕事の低賃金では食うのもやっとな中、肺を病んだ夜鷹を看病し、綿入りの布団で寝かせてやる。
自分がどん底なのに、それでも他人を助けずにおれない、情の深いお光。スラム街の聖女のような女である。
そうこうしているうちに、幸次郎の妻は亡くなり、ろくでなし清吉は石川島から脱獄しようとして死んだという知らせが届く。
やもめ幸次郎は、お光に再婚を申し込もうとするが・・・
宝塚版ではお光が「わたしみたいな者が棟梁と結婚なんて、恐れ多い」的なニュアンスで辞退するのですが、
原作では、
資産があって旦那旦那とたてられて、どこにひとつ非の打ちどころのない人には、泥まみれ傷だらけになった人間の気持ちはわかりゃしません。
あたしのこの身体には、あの人でなしの傷や泥が残っているんだから
自分は誰よりも仕合せだとか、世の中で苦労したのは自分だとかってー
他人のことはわかりゃしない、いくら人の身になって考えたって、その人の傷の痛さまではわかりゃしない。
しかも、ろくでなし清吉は実は生きていて、お光を狙っているというではないか。
このままでは、2人は結ばれない。
ラスト、駆けだした半次は清吉をどうしたのかー
原作では
野郎を片付けたらあっしは自首して出ます。無宿のならず者が喧嘩をして、一人が一人をあやめ、そいつをあっしがやったと、いつかお耳に入ることでしょう。ここでお別れもうします。どうかいらしっておくんなさい。
そして、ラスト「もう、どこへも行くな!」につながるのです。
まとめ
山本周五郎作品って、子供のころ読んだ時は、罪の無い人が次から次へと苦労するばかりで救いの無い話と思っていました。
今読むと、周五郎作品の登場人物の、貧しさや不幸のオンパレードの中でも芯の強さを失わない姿に、聖書の苛烈な弾圧下で信仰を守った聖人たちのイメージが重なります。
鮮やかな幕切れにはオーヘンリーの短編のような、味わいもあり、現代でも古びない普遍的な強度のある話だと思いました。
演出の小柳先生は、柴田先生亡き今、初演の精神を受け継ぐことに留意されたそうです。
個人的には、初演から30年経ち、宝塚のヒロインが演じる役柄も多彩になった現代、引用したような、原作のヒロインが放つ強いセリフを使ってもよかったのかも?と思いました。