水の江瀧子の半生が宝塚OGにより蘇る「TARKEI THE STORY」
縣 千
集合しましたー!
雪組生みんなの元気な笑顔が久しぶりにみられてとても嬉しいです。
早速ショー『Sensational!』のプロローグができました。とても勢いのある素敵な振り付けです。
この勢いに乗って皆さまに刺激的な作品をお届けできるように頑張ります!
開口一番、「集合しましたー!」
集合できたんだー!
夢白あやちゃんも、みんなも元気なんだー!
よかったー。
花組の「TOP HAT」組も集合できたそうで。舞台が閉じていても、宝塚は動いている、ということがわかって、
普段ならなんでもないキャストボイスが、こんなにうれしいとはねえ・・・
「暗い時ほど明るいものを。辛いときほど楽しいものを。」
笑顔をありがとう!アンタはスターだ!
とまあ、惚気だけで終わってはさすがに申し訳ございませんので・・・
また雑談。
管理人の「永遠の贔屓」の人生が、宝塚OGの凰稀かなめさん、彩凪翔さんらによって蘇ったお話でも。
管理人にとって、「永遠の男役」は、実は宝塚OGではありません。
まだ宝塚を知らない子供の頃、何かの雑誌で、戦前の松竹少女歌劇の「男装の麗人」水の江瀧子さんのこのブロマイドを見た記憶があって、ずーっと気になっていたのです。
その後幾星霜、縣を見て、
「探していた人が、ここにいた!」
管理人の永遠の贔屓、水の江瀧子(ターキー)
俺がミズノエ・ターキーだあ!(6分30秒すぎ)
植草克秀演出&凰稀かなめ主演!戦前期の歌劇スタア・タアキイが令和のステージに復活 『ドラマティックレビュー TARKIE THE STORY』公開初日直前ゲネプロ
大正時代に宝塚で生まれた少女歌劇は、あっという間にエンタテインメントとして大人気となり、興行会社・松竹も少女歌劇を大阪、東京に創設した。
第一期生、背が高い割に引っ込み思案の新人、水の江瀧子は、一期下のオリエ津阪の才能に嫉妬するでもなく、芸への意欲もわかない日々であったが、
大阪の松竹少女歌劇団、笠置シズ子に奮起を促され、とある公演で日本初の断髪姿となってからは「男装の麗人」の呼び名とともにあっという間に日本一の人気スタアとなり「レビュー」の評判はいやが上にも高まった。
植草克秀の演出のもと、令和時代最高のスタッフ陣による本公演は、実在の人物、歴史的事実が織り込まれるのみならず、当時のステージで使用された楽曲が演奏される。
主人公”タアキイ”こと水の江瀧子を演じる凰稀かなめを始めとし、オリエ津阪役の彩凪翔、笠置シズ子役のNANA(MAX)らにも注目。
本公演は2月10日から16日まで、品川ステラボールにて開催される。
ひゃあ、凰稀かなめさん、現役のころと変わらずカッコイイ!
”タアキイ”こと水の江瀧子は、男役史上初めて短髪にした男役でもあります。
それまで宝塚にも男役はいたのですが、長い髪をネットでまとめて帽子で隠していたので、
お芝居では家の中でも帽子をかぶったまま、という不自然なことに。
昭和5年、松竹歌劇団の水の江瀧子が、長い髪をバッサリ切って、舞台に登場。
カウボーイに扮した瀧子が名を問われ、
「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」
と見得を切り、大好評!(動画でも紹介されているシーン)
”ターキーショック”の衝撃に、宝塚の男役も追随して短髪に。
これをきっかけに、少女歌劇の人気の中心が、娘役から男役、「男装の麗人」に移っていったそうです。
ターキーは戦前の女性としては長身(167cm)だったそうで、現在の宝塚でも男役トップいけるんじゃね?
ターキーの舞台での芸は、「容姿100、踊り70、歌唱力0 セリフ:舌たらず」💦
歌うま至上主義者には、理解しづらい存在だったのかもしれませんが、
ターキーの人気の根源は、彼女自身も言っているように(おかしな話だが)パーソナリティだけである。
少女歌劇というヘンテコなものが存在してきた中でターキーほどの愛嬌を、つまりショウマン・シップを示したスタアはいなかった。
彼女はちゃんと自分の愛嬌を『売り物』にしてみせたのである。
(『芸術新潮』昭和28年8月号)
スターとは「ショウマン・シップ」なり。
ターキーは見た目だけでなく、骨のあるアニキでした。
なんと戦前に、劇団員の待遇改善を求めて、松竹を相手にストライキを決行!
当時18歳で争議委員長を務め、自分のサイン入りブロマイドを売って資金にし、団体交渉や演説までして、ついに生徒側の要求が通った形で松竹との交渉に成功したそうです!
すげーなターキー!
水の江瀧子は、松竹楽劇部一期生。
「男装の麗人」として戦前の国民的スターとして活躍。戦後はテレビ放送開始当初から「紅白歌合戦」の司会や「ジェスチャー」などでお茶の間で人気を集め、戦前戦後を通じて「ターキー」の愛称で親しまれた。
また、日本映画界初の女性プロデューサーとして昭和のスター・石原裕次郎を見出すなど多くのヒット作品を生み出した。
「暗い時ほど明るいものを。辛いときほど楽しいものを。」
社会に明るさを提供し続けた芸能人生の原点を語る。
男装の麗人から女優に転身後も、TV番組『ジェスチャー』『独占!女の60分』や紅白の司会で活躍、
日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を築く(Wikiより)
少女歌劇どころか、昭和の日本芸能界の最重要人物ですよ。
そんな彼女の人生を、令和の世に演じるのが、松竹歌劇団のOGでは無く、ライバルだった宝塚のOGというのは、嬉しいような、寂しいような。(SKD松竹歌劇団は1996年解散)