指田 珠子はポスト上田久美子になる必要も無い
先日『冬霞の巴里』を配信で鑑賞した感想記事をUPさせていただきました。
その後、皆様の感想を拝見させていただいている中で、
『冬霞の巴里』において、アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」はあくまで「モチーフ」であり、「原作」ではないのだから、古典の「オレステイア」の内容について気にする必要は無いのでは?というご意見を目にしました。
個人的には、「モチーフ」とは
主題、主調、主想。もともと動機を意味し、絵画、彫刻、文学、音楽などの分野で、創作の動機となる作者の内的衝動のこと。
創作活動では、ある素材(マテリアル)をもとに一つの主題(テーマ)を確定し、筋立て(プロット)をたてることにより、作品の骨格ができあがる。
このとき、素材から主題を導き出す創造的衝動をモチーフということができよう。これが作品の明白な基調となって表現される。
という意味があり、
作者が作品解説において”古代ギリシアの作家アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」をモチーフに”と明示していることから、
『冬霞の巴里』という作品を書いた指田 珠子先生の内的衝動について考察する際に、先生がモチーフにされた「オレステイア」の内容と対比させていただきました。
そういえば、SNSで指田 珠子先生について「彼女こそポストウエクミ」という声をよく目にするのですが、うーん。
上田久美子と指田 珠子の共通点
・どちらも女性である
・デビュー作が日本の古典作品/伝説をモチーフにしている
・セリフや舞台美術、衣装など女性好みの洗練された感受性で統一されている。「チョー泣ける」ではなく、古風な「子女の紅涙を絞る」的表現が似合う。
あたりは、共通点があるのですが。
私は両者ともデビュー作で日本の古典作品をモチーフにしていて、素材から主題を導き出す創造的衝動の方向性がだいぶ違う、と思っています。
上田久美子の宝塚バウホールデビュー作
バウ・ロマン
『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』-衣通姫(そとおりひめ)伝説より-
作・演出/上田久美子
[解 説]
古事記や日本書紀に残る一大恋愛叙事詩、衣通姫伝説。美貌の皇子と皇女が禁じられた恋に落ち、流刑の地で心中したという哀切な「物語」に秘められた真実とは・・・。
その涼やかな姿と優しさで人望をあつめる木梨軽皇子(きなしかるのみこ)には、皇位継承のライバルと見なされる勇猛な弟、穴穂皇子(あなほのみこ)と、衣通姫と呼ばれた美しい「妹」がいた。三人の晴れ渡るような青春の恋と夢は、やがて歴史の暗雲に覆われて、彼らの物語は意外な展開を見せてゆく――。
運命に翻弄され流刑の身となった木梨軽皇子を衣通姫は追ってゆくが、地の果てで再会した愛しい人の貌に、もはやかつての優しい「兄」の面影はなかった・・・。
古代の混沌から国家が形をなしていった日本の黎明期、歴史の大きな流れに呑まれて消えていった人々の悲哀と、そして、「物語」に込められた思いを、現代的な感覚で劇的に描きだす。
上田久美子の宝塚バウホールデビュー作。
指田珠子の宝塚バウホール作
音楽奇譚
『龍の宮(たつのみや)物語』
作・演出/指田 珠子
遠い昔、夜叉ケ池という池で干ばつが続いた。村の長者は自らの娘を生贄として池に棲む龍神に捧げ、村には再び雨が降るようになったという……。
明治中期、実業家島村家の書生・伊予部清彦は、仲間達との百物語で、夜叉ケ池の怪談話を知る。度胸試しに一人池へ向かった清彦は山賊に襲われている娘に遭遇する。
清彦が娘を助けると、娘はお礼に清彦を池の奥底にある龍神の城・龍の宮(たつのみや)へ連れて行く。
清彦が助けたのは、龍神の姫・玉姫であった。清彦は姫を救った恩人として丁重にもてなされ、宮殿での豪華な生活に浸りながら、姫の怪しい美しさに惹かれていった。
やがて数日が過ぎ、友人達や島村家の令嬢百合子のことが恋しくなった清彦は、玉姫に地上へ帰りたいと告げるのだが……。
夜叉ケ池伝説と105年前にも宝塚で上演されたお伽話『浦島太郎』、青年と龍神の姫の愛憎織り成す異郷訪問譚。
この作品は、演出家・指田珠子の宝塚バウホールデビュー作となります。
Fantasmagorie
『冬霞(ふゆがすみ)の巴里』
作・演出/指田 珠子
時は19世紀末パリ、ベル・エポックと呼ばれる都市文化の華やかさとは裏腹に、汚職と貧困が蔓延り、一部の民衆の間には無政府主義の思想が浸透していた。
そんなパリの街へ、青年オクターヴが姉のアンブルと共に帰って来る。二人の目的は、幼い頃、資産家の父を殺害した母と叔父達への復讐であった。
父の死後、母は叔父と再婚。姉弟は田舎の寄宿学校を卒業した後、オクターヴは新聞記者に、アンブルは歌手となって暮らしていたが、祖父の葬儀を機にパリへ戻った。
怪しげな下宿に移り住む二人に、素性の分からない男ヴァランタンが近づいて来る。
やがて姉弟の企みは、異父弟ミッシェル、その許嫁エルミーヌをも巻き込んでゆく…。
古代ギリシアの作家アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」をモチーフに、亡霊たち、忘れ去られた記憶、過去と現在、姉と弟の想いが交錯する。
復讐の女神達(エリーニュス)が見下ろすガラス屋根の下、復讐劇の幕が上がる…!
上田久美子の「物語は自分語り」
『月雲(つきぐも)の皇子(みこ)』-衣通姫(そとおりひめ)伝説より
古事記や日本書紀に残る一大恋愛叙事詩、衣通姫伝説という「物語」に込められた思いを、現代的な感覚で劇的に描きだす。
上田久美子は木梨軽皇子の物語を知り
「ここに、自分がいた!」
上田久美子にとって、古事記や日本書紀の時代に生きることと、令和の時代に生きることは、人間が生きて愛し憎しみ合うという意味で同じフィールドであり、
「自分が允恭23(434)年に生きていたら、どうしただろう?」
「自分事」として、1,500年以上語られた物語を、あらたに語り直す。
指田 珠子の「奇譚ハンター」
夜叉ケ池伝説と105年前にも宝塚で上演されたお伽話『浦島太郎』を元に、青年と龍神の姫の愛憎織り成す異郷訪問譚を描く音楽奇譚(珍しい話。不思議な物語)
古代ギリシアの作家アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」をモチーフに、亡霊たち、忘れ去られた記憶、過去と現在、姉と弟の想いが交錯するFantasmagorie(幻灯機を用いた幽霊ショー)
指田 珠子は、19世紀末パリの社会にもしも自分が生きていたらどうしよう、社会を変えるためにアナーキストになるかも、とかあまり思っていない。
近親相姦と近親憎悪に満ちた古代ギリシアの「オレステイア」物語を「世にも奇妙な禁断の物語」としてとらえ、
珍獣ハンターならぬ奇譚ハンターとして、捕まえた奇譚をどんな趣向でお見せしよう。そうだ、Fantasmagorie(幻影幽霊ショー)の趣向で!
あくまで「演出家」目線。
上田久美子の万葉調
清新な感動を率直に表現。技巧的・観念的な〈古今調〉とは対照的であり,賀茂真淵はこれを〈ますらおぶり〉と呼んだ。
木梨軽皇子(きなしかるのみこ)の和歌
うるはしと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の
乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
まあ、1500年前の歌ですが、注釈が無くても、現代人にも木梨軽皇子の想いはストレートに伝わりますわな。
指田 珠子の新古今和歌集的「本歌取り」精神
歌風は観念的傾向が著しく,華麗。本歌取り,本説,本文など,典拠を有する表現を好んで用いるため,古典的であり,難解なものも多い。
おもかげの霞める月ぞやどりける 春や昔の袖の涙に
(新古今和歌集 一二 一一三六 俊成卿女)
これは在原業平の
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」
月も春も昔と変わらない。わが身は昔と変わらないのに、見る私の心が変わってしまった
を元にしていて、
ただでさえ、情念が先走って言葉足らずでは、と言われた難解な歌を元にして、さらに趣向をこらした「本歌取り」である。
ウエクミは繊細な感性と、たとえ大学入学共通テストの題材になったとしても、物語の論理をたどっていけば誰でも解にたどりつける強固な構造があったのですが、
指田先生は古典を元に、論理よりも技巧、情緒と余韻でねじふせた感があって、あいまいな余白が多くて大学入学共通テストの題材にはならん(まあ、なる可能性も、必要も無い)
うーん。
両者は、素材からの創作の動機となる内的衝動の呼び出し方がだいぶ違うと思うのですが。
まとめ:指田 珠子はポストウエクミではないし、なる必要も無い