宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

ギャッビーは現代のイカロスの神話『グレート・ギャッビー』感想




月組公演『グレート・ギャツビー』初日舞台映像(ロング)



※ネタバレ感想です。


何よりもまず確かなことがある。


金持ちはますます金持ちになり、


貧乏人はますます・・・子だくさんになる。


とかくするうち


そうこうするうち・・・


村上春樹訳 『グレート・ギャッビー』


私は、宝塚月組公演「グレート・ギャッビー」という舞台のライビュを見ました。


この舞台のライビュを見ようと思ったきっかけは、私はスコット・フィッツジェラルドによる原作を読んだことがあり、


宝塚での舞台化にあたって、座付き演出家である小池修一郎先生が、小説版からどのような改変を加えるのか、興味があったからです。



あらすじ


この物語の主人公は、正体不明の大金持ち、元は田舎出身の貧しい軍人ギャッビーです。彼は名家の令嬢ディジーに恋をして、結婚を決意します。


でもディジーの両親から、どこの馬の骨とも知れない奴に、娘はやれん、と言われてしまいます。


戦争から帰ってくると、ディジーは大金持ちのトムと結婚していました。


ギャッビーはディジーにふさわしい男になるために、お金を稼ごうとヤクザの世界に入ります。


ヤクザの世界で出世し、お金を貯めてディジーに結婚を申し込もうとしたものの、嫉妬したトムに過去をばらされ、さらにディジーがとんでもない事件を起こします・・・



心に残ったところ


わたしがこの舞台を見て、いちばん心に残ったのは、小池修一郎先生の脚本と演出の丁寧さです。



冒頭トムが「ポロ」仲間と、マレットと呼ばれるスティックを振り回して「我らはアメリカの貴族♪」と歌う所は、


原作では、トムは元アメフト選手のイメージが強くて、アメフトやゴルフなら経験ある人もたくさんいるけど、🐎ポロ🏇ってすげえ、リアル貴族!と思いました。


ディジーは、ロシアンバレエに憧れ、蓄音機でカミーユ・サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』第13曲『白鳥』をかけながら、いつか「瀕死の白鳥」を踊ろうとする女性です。


いっぽうギャッビーは、豪華な自分の屋敷での音楽のダンスの時に「君、ブエノスアイレス出身だろ?歌ってくれ」とざっくりしたリクエストをかけるところとか、


デイジーとの逢瀬のBGMに「初恋のワルツ」という


 ♪朝にも 夕にも、僕らは楽しいことがいっぱい!♪


と、「みんなのうた」みたいな色気のない曲をリクエストするところに、ギャッビーの文化的なバックボーンがほの見えて、


ディジーとギャッビーの、文化的素養の残酷な格差の表現が凄いと思いました。



全体に、ギャッビーとディジーの恋物語に加えて、当時のアメリカの格差社会の状況を細かく描写しているので、1920年代のアメリカの歴史的背景を知らない方にも、初見でわかりやすい舞台になっていると思います。


そのぶん、ギャッビーとディジーの2人の悲劇が間延びしてしまった感はあるかもしれません(特に第1幕は背景事情の説明が多いけれど、別に無くても話はわかると思う)。




もしも私がギャッビーなら


もしも私がギャッビーだったら、高嶺の花の女性はすっぱりあきらめて、やくざな道に進まず、同じような環境の出身の女性と結婚して、つましく暮らします。




・・・



紅子:こんちゃんさん、キャラ変えた?


管理人:最近、子供の夏休みの宿題の読書感想文の手伝い(という名の誘導尋問)に忙しかったのでね。


紅子:作品のテーマが、


「高望みせず、身の丈にあった暮らしをしましょう」だったり、


「ギャッビーは、トムと離婚したディジーと幸せに暮らしました。めでたしめでたし。」


では、この作品が100年残らなかったでしょ!


管理人:確かに。空高く飛翔しないイカロス、風車に突っ込まないドン・キホーテじゃあ、何も心に残らないわねえ。


超個人的な感想は、


「グレート・ギャッビー」の原作では、ディジーはもっと何を考えているかわからない、最後も義理を欠いたまんまの、「ひでえ女」なのね。


宝塚版では、現代日本の観客の道徳観に合わせて、原作の「ディジー、ひどい」っぷりをなるべく和らげて、


女の子はキレイなお馬鹿さんであることが喜ばれた時代背景を強調して「まあディジーも事情があったのね。可哀そう。」とだいぶ擁護しているわね。


何かにつけてディジーが産んだ赤ちゃんが出てくるし。(原作では、娘、ああいたっけ、ぐらい存在感が無い))



ディジーについて


「美しく呪われた、運命の女!」


「イカロスが憧れ、近づきすぎて、翼が溶け落ちた太陽!」


この女のためなら、破滅するわな・・・という、ギャッビーを放熱させる熱源にしてファム・ファタルっぷりから、


「当時の上流階級の常識に縛られた、可哀そうな女性」


に雰囲気が変化して、とっても親しみやすく、わかりやすいメロドラマになった反面、


村上春樹がぞっこん惚れるほどの「20世紀のイカロス」的な、神話の英雄的な崇高さは薄れたなあ、とは思った。