花總まりがエリザベートにサヨナラした日
超個人的『エリザベート』と私
花總まりがシシィ役にサヨナラした日、
『エリザベート』博多座大千穐楽公演1月31日(火) 12:00公演を、見逃し配信にて視聴しました。
配役は、
エリザベート役:花總まり
トート役:古川雄大
フランツ・ヨーゼフ役:田代万里生
ルドルフ役:甲斐翔真
ゾフィー役:剣幸
ルキーニ役:黒羽麻璃央
私が宝塚を初めて生観劇したのは、1996年のこと。
『エリザベート』初演の宝塚大劇場公演と東京宝塚劇場の間に行われた、地方公演『あかねさす紫の花』でした。
幕開けに万葉の野原に走り出てきた額田王を見て衝撃を受け、当時発売された『エリザベート』のビデオテープを購入し、テープを巻き戻し、巻き戻し、文字通りテープが擦り切れて絡んで視聴できなくなるまで見た記憶があります。
あれから27年。1996年当時、木登りしているシシィとほぼ同年代であった私は、進学、就職、結婚し、息子の教育に悩む母親となりました。
その間に、トート閣下は祖母を、祖父を、義母を、実父を連れて行ってしまい、
私も一時危うくトート閣下と踊りかけ、医学の力で引き戻していただき、献血できるようになるまで回復し、ぼちぼちと生きております。
そして、宝塚版『エリザベート』初演キャストである、一路真輝、 花總まり 、高嶺ふぶき、 轟悠、 香寿たつき、和央ようか、安蘭けい…
皆様ご健在ですが、宝塚退団後それぞれ人生の荒波を渡り、もう芸能活動の一線からは距離を置かれている方もいらっしゃいます。
ー思えば遠くへ来たものだ。ー
つまり私の宝塚ファン歴は、日本における『エリザベート』上演の歴史とほぼ重なっているのです。
『エリザベート』が再演されるたび、私も少しづつ歳をとり、作品への想いもだんだんと変化して行きました。
ウイーン版『エリザベート』は、トートは元々主役ではなく、宝塚版『風と共に去りぬ』における「スカーレットII」のような「シシィII」的な位置づけだったようです。
宝塚でトップ男役を主演に位置付けるために「愛と死の輪舞」の物語に潤色したゆえに、シシィとトートの関係の展開がストレートに読み解けない”歪み”や“ねじれ”が生じ、
”歪み”や“ねじれ”ゆえに、演じるたびに、観劇するたびに、すこしづつ受け止め方が変わっていく魅力が、作品を育ててきました。
私が初演をビデオテープで見た頃は、
シシィ:誰よりも自由を追い求め、束縛を嫌い、それゆえに死に惹かれていく一人の女性。
トート:シシィの自己愛と希死念慮が擬人化した美しき死神。
で、「シシィ負けるながんばれ!」であったのが、
公演をライブビューイングや配信で視聴する時代になると
「シシィ、親としても社会人としても失格だわ。ゾフィーの言うことがごもっとも。」
になってきました💦
そして、ついに、
予感していたとはいえ、私を宝塚に誘った花總まりが、シシィ役にサヨナラする日が来てしまった。
なぜ今まで配信視聴を先延ばししていたかと申しますと、忙しいとか、用事があったとかよりも、
”いやなんです。
あなたのいってしまうのが――”
という思いになりそうで・・・
いざ配信視聴した感想は、「花總まりがシシィに笑顔でサヨナラできて、よかった」
いやー、花總まりがシシィに笑顔でサヨナラできて、よかった。
花總まりさんは憑依型の演者だと思いますが、ことにシシィについては初演の頃から、
「すごい演技だった!」
というより
「ああ、ここにシシィがいた!」
という『メソッド演技』的な在り方でいらっしゃった印象です。
ミュージカル女優にとって、『エリザベート』のシシィ役のオファーがあることは、大変喜ばしいことだと思いますが、
孤独で奇矯なシシィが”似合い過ぎる”ことは、一人の女性として喜ばしいことなのか。
史実のエリザベートって、公務をせず、わあわあ言って取り戻した息子をほったらかし、
1日にタマゴを3個とオレンジ2つしか召し上がらず器械体操に励んで、1日に8時間散歩して驚異のウエスト50センチの維持に励み、
各国大使に「国一番の美人の写真を送れ」と命じて、25,000枚の美女の写真と、どちらがきれいか比べていたんですよ。
スイス銀行に公金をへそくりして、税金で別荘を建てさせたんですよ。
日本の皇室の方がそんなことしたら、どう思います?
気性が激しく、風変りで、突飛で、エキセントリックこのうえない。
「宮廷のルールが煩わしいから」とか「夫が浮気したから」とか理由があって放浪したというより、
シシィはルールの緩い貴族の家に嫁いでも、夫が浮気せず真面目で一途でも、相当に「生きづらさ」を抱えたままトート閣下とワルツを踊ったのでは。
(今回の東宝版の舞台でも、「精神病院」の場面を「夫の浮気」エピソードの前に置き、彼女の魂の流浪は夫の浮気だけが原因ではなさそうな演出にしています。)
花總まりさんの人生について、宝塚退団後、東宝から何度もエリザベート役をオファーされても、頑なに固辞し続けたなど、漏れ聞くエピソードを思うと、
彼女は、エキセントリックなシシィにテクニックで「なり切る」というより、
『エリザベート』劇中でシシィに生じる感情や状況について、彼女自身の経験やかつておかれた状況を擬似的に追体験していたのでは、と感じることがあります。
花總まりは宝塚、東宝を通じて500回近く、観客の前でシシィとして生きました。
初演の雪組版と比べれば、絶叫しがちだった歌唱表現は格段にまろやかになり、
第1幕の、16歳の初々しい蕾から、鏡の間での、盛りの開花の艶やかさ。
第2幕の、花の盛りは短いが、植物本体の寿命は短くもなくて、花の盛りを懸命に引き延ばしつつも、実が結実するまえに落果した無残、
ラストは「死との愛の成就」というより、美を誇った自身の「老い」と「死」の受容のプロセスをも、
己の肉体に霊を降ろしたイタコのように、19世紀に生きた一人の女性の人生をその身に降ろし続けた。
観客の前で自己の内面を掘り下げ続けた旅は、彼女自身の精神に相当な負荷をかけ続けたのではないでしょうか。
花總まりがラスト、ルキーニに抵抗もせず刺され、あの日の額田のような16歳の少女に戻り、
カーテンコールで
「私のシシィとの旅は終わりました。シシィ、ばいばーい。」とおっしゃった瞬間の映像を拝見して、
「花總まりはプライベートでも落ち着いて、幸せな人生を過ごしていらっしゃるのだろうな。」
「シシィのような孤独な人生でなさそうで、よかった。」
と心底思いました。