宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

双曲線上のカルテ 正直感想



※ネタバレ感想です。



初演時の公演紹介から、あらすじを引用させていただきます。



優秀な外科医、フェルナンド=デ・ロッシは、バチカン・カソリック大学病院での約束されたエリート・コースを捨て、ナポリ近郊の個人病院、マルチーノ・メディカル・ホスピタルで勤務に就いていた。


 孤独な影を秘めたフェルナンドだったが、看護婦のモニカはいつしかフェルナンドの冷たい眼差しに惹かれ、恋に落ちる。


 外科医としての腕前は秀逸でありながらも、夜勤中に酒を飲み、医師法違反の手術をし、さらには女の噂も絶えないフェルナンドに、正義と理想の医療を旨とする若き医師ランベルトは反発を強める。


だが…一見傍惹無人に見えるフェルナンドの行動の裏には…ある秘密が隠されていた。




医者は本来、殺し屋だ。


人間誰しも避けられない死をいかに納得させるか、その手伝いをする職業である。


われわれは患者を助けてはいない、助かったのはその人達に助かる力があったからだ。医者はその生命力に手を貸しただけだ。


渡辺淳一『無影灯』より




『双曲線上のカルテ』は、医師兼作家であった渡辺淳一の医療小説「無影燈」(1972年)を原作にした物語です。


「無影燈」は1973年に、田宮二郎主演の「白いシリーズ」の第1作「白い影」としてTVドラマ化されました(「白いシリーズの第6作が、有名な医療ドラマ「白い巨塔」)


2001年にも、中居正広主演でドラマ化されている作品ですが…



紅子:もしも診察してもらうなら、


外科医としての腕前は秀逸で、治る見込みの無い患者に対して優しい嘘をついてくれるが、夜勤中に酒を飲み、医師法違反の手術をし、さらには女の噂も絶えないフェルナンド(和希)と、


婉曲表現をせず、きついことをズバズバ言うが、正義と理想の医療を旨とする若き医師ランベルト(縣)、


どっち?


管理人:…ランベルト先生かなあ。


紅子:正直、原作の「無影灯」って、昭和の医療ドラマの中では、「白い巨塔」「ブラック・ジャック」ほどの古典にはなっていない感があるのよね。


管理人:劇中では、フェルナンドは


・夜勤中に酒を飲む。


・末期の胃がん患者に真実を告知せず、胃潰瘍と伝える。


・手術の適応対象ではないのに、手を尽くしたという気休めを与えるため、傷をつけるだけの手術をする。


・二股交際を躊躇しない。


・多発性骨髄腫に冒されていて余命いくばくもない状態であることを隠し、看護婦のモニカと妊娠の可能性がある性行為をする。


・モニカを旅行に誘い、母親に会わせた後、湖に飛び込んで自殺する。


・実はモニカは妊娠していた…


紅子:昭和の頃は、末期癌の患者に告知しないことは珍しくなかったのだけれど、


令和のコンプライアンス的には、いろいろあかん。




管理人:原作のラスト、妊娠させた看護師へ宛てた遺書は、

今ここに君に最後の便りを書くのは、第一には君に悲しみを与え過ぎたことの詫びを言いたかったからである。


そして第二には、数ある女性の中で、君だけは、私の死後も、子供を生んでくれるかもしれないと思えたからである。


ちなみに、『白い巨塔』主役の財前五郎(誤診で患者を死なせてしまい、家族に訴えられ敗訴。控訴しようとすると自身が末期癌であると判明する)の遺書は、


自ら癌治療の第一線にある者が、早期発見できず手術不能の癌で死すことを恥じる。


紅子:「自分は死ぬが、せめて子孫を残したい!君、俺の子を生んでくれ。」


フェルナンド先生、本当に本能に正直ですね。


管理人:終末期の患者さんによる女性看護師へのセクハラとか、戦地での兵士による女性への性加害とか、


「エロスとタナトス」って綺麗ごとじゃないのよね。


紅子:病気の発覚後も入院せず、治験薬とモルヒネを打ちながら医師業を続け、病気の進行を記録し、


医師業が不可能になり完全な患者になる前に、自分の意思で命を絶つ。


死を敗北ではなく選択の結果とする。


これはある種の「ダンディズム」のお話なのかしらね。


管理人:昭和の男のダンディズムというか、「エゴイズム」だよね。


紅子:「俺をもう一度妊娠して、生んでくれ」


男のエゴイズムを、女にすべて受け入れてもらうというファンタジーを、令和の宝塚の女性観客に金を取って見せるのってどうなのだろう。


管理人:原作発表から50年で、世の中はだいぶ変わったけれど、


このラストについての議論は、あと50年たっても、男と女と交わることの無い双曲線のままの気がするわ。