『ベルサイユのばら』新人公演感想
雪組『ベルサイユのばら』新人公演を、配信で視聴しました。
『ベルサイユのばら』は、昭和レトロなセリフ回しや演技様式を要求されつつも、登場人物たちの煮えたぎる思いが交錯するお芝居をたっぷりと堪能できる、格調高い「古典劇」です。
名作との評価の定まった古典を、洗練された容姿の主要キャストたちが華麗に演じる。
『ベルサイユのばら』上演とは、絢爛たる祭典でもあり、歴史の悲劇を伝える厳粛な儀式に立ち合っているようでもあります。
本公演が、歌舞伎で名優たちが源義経の悲劇を演じているのを、客席で背筋を正して見入っているようなものだとすれば、
新人公演は、遠い18世紀のヴェルサイユ宮殿というよりは、21世紀のマンションで子育てに奮闘する母親が不倫してしまったり、自衛隊でやす子さんのような女性自衛官が、仲間たちと軋轢がありつつも任務に奮闘する姿に感情移入してしまうような、
歌舞伎で言う「世話物」的な雰囲気があって興味深かったです。
宝塚版『ベルサイユのばら』フェルゼン(新人公演:蒼波黎也)という役は、歌舞伎で言う辛抱立役(大いに活躍する役に対して、控えめな演技で、忍耐が見所となる男性の役)だと思います。
今回の新人公演でも、バスティーユの場面が本公演よりも前に来たことで、前半は「あれ、これ「オスカル編」だっけ?」並みにオスカル大奮闘の印象が強い舞台でしたが、
フェルゼンは辛抱して熱量を保温し続け、ため込んだ水量は後半に向けてさらに沸騰する!
「セラヴィ・アデュー」は割愛されましたが、バスティーユからすぐに馬車のシーンになるので、フェルゼンがオスカルの遺志のバトンを受け取り、さらに拍車をかけるさまに胸が熱くなりました。
マリー・アントワネット(新人公演:白綺華)は、シェーンブルンに咲く深紅のバラというよりは、青きドナウの岸辺で、風を受けながら咲いている白い花。
この王妃なら革命が起きても処刑はされず、国外追放か修道院で余生を過ごすくらいで済みそうな、子煩悩なごく普通のお母さんという雰囲気。
なのに、どこと言って非凡なところなどない人間に、歴史は大きな役割をふりあてることがある。
夢白マリーは、生まれた時から紅薔薇の定めを宿命として受け入れているような雰囲気ですが、
白綺マリーは運命に悩み、もがき、あらがった末に、静かに死を受容するさまが、ひょっとして史実のマリーに近いのかもしれない、と感じました。
ロイヤルたちがしんみりソープオペラを歌っている一方、オスカル(新人公演:紀城ゆりや)とアンドレ(新人公演:華世京)は、少年ジャンプでいう努力・友情・勝利!の熱量で、愛と革命の荒野を駆け抜けていく!これぞ新人公演!
紀城オスカルは、声が高く「私は女性だが、男として生きねば」と気負っている感が薄くて、「私は女性で、軍人をしている」ことに迷いが無いのが令和っぽいですね。
※アンドレの視力悪化の演技はよいのだけれど、さすがにオスカルは気づかなかったのか気になる。