宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

松本悠里「洋楽で日舞」を「キッチュ」から「スタイル」にした身体能力

松本悠里さん退団へ



1957年(昭和32年)入団、研64。


昭和32年当時を振り返ると、


長嶋茂雄が巨人に入団し、ヒット曲が島倉千代子の「東京だよおっかさん」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、映画は、オードリーヘップバーンが銀幕の妖精だった時代。東京オリンピックどころか、上皇様ご夫妻のご成婚前でした。



池上彰の番組みたいになってきたな・・・(ちなみに当時、池上さんは小学1年生だよ)



そのころからずーっと「タカラジェンヌ」ですよ。


1974年に舞踊専科へ異動、つまり宝塚が初演ベルばらに沸いたころから、日舞一筋に歩まれてまいりました。


彼女は日本物ショーのイメージが強いですが、1999年に上演された植田紳爾作「夜明けの序曲」というお芝居で、松本悠里さんがセリフを言ったことがあります。


役どころは、モルガンお雪という、アメリカのあのモルガングループの創業者一族と内縁関係にあった、実在の芸者の役。



明治時代、愛華みれさん演じる川上音二郎がアメリカに渡り、元芸者の妻 貞(マダム貞奴)とともに、日本舞踊を基にしたショーを演じて評判となるのですが、


モルガンお雪は一躍時の人となった2人を、アメリカの自宅に招き、お茶でもてなしながら


「東は東、西は西。あなた達は、もの珍しさでちやほやされているけれど、今の芸はまだまだ未熟。本物の芸を身に着けるべく、精進をなされよ」


と諭す役回りです。


このセリフのとおり、松本悠里さんは、三味線で踊る伝統的な日本舞踊の名手にして、


宝塚の「西洋音階で踊る日本舞踊」という、東と西の全く異なる音楽とダンスを統合したものを、いかにして「キッチュ」でない「一つの確固としたスタイル」にできるか、という難題に挑戦し続け、後輩たちに指導されてきました。


宝塚は100年前から「キッチュ」だった

宝塚の「日本ものショー」




宙組公演『白鷺(しらさぎ)の城(しろ)』『異人たちのルネサンス』初日舞台映像(ロング)





本来の「日本舞踊」 作 近松門左衛門

シネマ歌舞伎『二人藤娘/日本振袖始』予告編


時代が明治から大正に代わったころ、学校教育ではドレミファを習うのに、


当時の世間で芝居と言えば歌舞伎、遊びと言えば芸者、庶民は楽器を習うといえばピアノやギターでなく「三味線」「お琴」の時代


小林一三が宝塚少女歌劇を創設した時、「歌舞伎とは違った、西洋音階を使った国民劇を創設する」というモットーがありました。


第1回公演「ドンブラコ」からして、東京音楽学校出身の作曲家による「西洋音楽」による日本物でした。


ドレミファ音階で日本舞踊を舞うということ

今でこそ歌舞伎で、西洋音階の伴奏でワンピース歌舞伎とかナウシカ歌舞伎を演じる時代ですが、


本来の日本舞踊は三味線等に合わせて、西洋の十二音階とは全く別の音階、チューニング、拍子で踊るもの。


今はさすがにあまり聞きませんが、祖父母の想いで話によると、昭和のころは、本式の日本舞踊をなさっている方から


「宝塚でやっているアレは、「日本物」と言っていいのか?キッチュ(まがいもの)では?」


という声はあったそうです。


宝塚ファンは見慣れていますけれど、ジェンヌの基本のバレエと、日舞という異文化コラボをうまく「スタイル」にするってとても難しくて、



東京バレエ団「ザ・カブキ」プロモーション映像


世界的振付家モーリス・ベジャールと日本の東京バレエ団とのコラボによる「忠臣蔵」のバレエ化。


バレエと忠臣蔵をいっぺんに見れてお得、と思うか・・・


うーん・・・自分でお金を出すなら、バレエはバレエ、歌舞伎は歌舞伎で見るわ・・・食い合わせが・・・


松本悠里さんは、その稀有な身体能力で、日本人が見ても違和感のない「西洋音楽による和ものショー」の動きのエッセンスを身体に叩きこみ、舞台に体現し、後輩に伝えてきた偉大な方。


退団まで、退団後も、ご活躍を期待しています。