「fff」の”わからなさ”の正体 これは”芝居”じゃない
雪組公演『f f f -フォルティッシッシモ-』『シルクロード~盗賊と宝石~』初日舞台映像
雪組公演『f f f -フォルティッシッシモ-』『シルクロード~盗賊と宝石~』初日舞台映像(ロング)
皆様、お元気でしょうか。
「ーfffー歓喜に歌え!」「シュー食おうぞ糖offほっとセーキシルクロード 盗賊と宝石」の感想戦に参加してみたいのですが、ライブ専科ならぬライビュ専科の地方民ゆえ、東京千秋楽のライビュが初見にして見納めとなる地方民です。
皆様のいろんな観劇感想を読みながら、あと1か月も過ごすのもじりじりしてきまして、
いっそ「ル・サンク」で脚本を読んだだけの印象で
「fffの舞台はきっと、こんなんじゃないか妄想」
でもやってみたいと思います。
いや、芸人さんのネタで、「鬼滅の刃」とかの話題作を見たことが無い方に、それがどんなもんかあてずっぽで語ってもらって、それをネタにワハハと楽しむ、とかいうのがあるじゃないですか。
フリーダムにランダムに、が信条のお気楽ブログですので、テキトー予想です。
考察①これは「芝居」じゃなくて、「シンポジウム」
実は、私、「fff」の脚本を「ル・サンク」で読んだ時の感想は、
「めちゃくちゃわかりやすい」
と思ったんですよ。
普段戯曲を読む時って、ほぼセリフのみで構成されているから、初読では誰がどの相手としゃべっているのかよくわからないじゃないですか。
なのにこの「fff」は戯曲なのにするする読めて、わかりやすくて、ためになって、「さすがウエクミ、賢いなー」と感嘆したんですよ。
で、SNSにおける「fff」の感想が、
「難解だ」
「よーわからん」
何故?
と思って、ハタと気づいた。
「fff」は”芝居”じゃない、”シンポジウム”だ。
シンポジウムとは?
公開討論会の1つ。特定のテーマについて、異なる見解をもった複数の専門家が1人ずつ講演を行い、最後に、聴衆の質問に答える、という形式。パネルディスカッションと異なり、講演者相互の討論はない。
symposiumはプラトンのシンポシオンsumposion(饗宴(きょうえん))に由来する。
プラトンの「饗宴」とは、
前 383年あるいは 385年の作と推定されるプラトン壮年期の対話篇。若い悲劇詩人アガトンの祝勝宴における列席者のエロス賛美の演説という構成をとる。
まあ、ギリシャのおっさんが、宴会で酔っぱらって、「エロス」について語るわけですが、
「エロス」と言っても下ネタでは決してなくて、どちらかというと
「ヅカファン同士が、贔屓へのこの熱い思いの正体はなんだろうと語り合う」
2,000年以上も前に、この永遠の問いへの素晴らしいシンポジウムがあったんだなあ、というお話
話題がそれた💦
つまり、「fff」は、あるテーマについて、ベートーヴェン、ナポレオン、ゲーテ、超大物たちがかわるがわる講演を行う”シンポジウム”なのですよ。
でも、宝塚の舞台を見に来る人は、当然「これは芝居だ」と思って見にくるわけで、そこでシンポジウムを見て「これは何の芝居だ?」となる。
では、ベートーヴェンは、ナポレオンは、ゲーテは、何について語っているのか?
それが「歓喜に歌え!」つまりいわゆる第九の「歓喜に寄す」
《原題、〈ドイツ〉An die Freude》シラーの詩。1785年の作。1786年、文芸誌「ターリア」に掲載。経済的苦境にあったシラーを支援したケルナーへの友情から生まれた頌歌(しょうか)。この詩に感銘を受けたベートーベンが、交響曲第9番第4楽章の歌詞として用いたことで有名。
長くなってきましたので、続きは気が向いたらまた。