宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

風来坊、柳生十兵衛はいた、天飛華音である



星組公演『柳生忍法帖』『モアー・ダンディズム!』初日舞台映像(ロング)


新人公演で天飛華音が務めた、どこか孤独の影を秘めた柳生十兵衛、カッコよかったあ。


天下の将軍様相手に「徳川なんぞ滅んで結構」と言い放った男。常に独眼を弱きものに注ぎつつ、わが道を行く天衣無縫の気概。


物事の筋を通し、自らの信じる道を曲げぬ強靱さ。


と同時に、内に秘めた女性への優しさ、しなやかさ、ユーモア。端正な面立ち。


まさに主題歌のごとく「風のような生き様の男」でありました。


将軍家の剣術指南役の家の嫡男という、当時としては破格の上級国民であり、剣術の腕に恵まれた十兵衛。


なんで親に勘当されたのか?


礼さんが演じた十兵衛は、よっぽど手の付けられない不良だったのかなあ?それにしてはずいぶん親父からコソコソ逃げて、と思いましたが、


天飛さんの十兵衛には、徳川の世の封建制度の枠に収まらない、前近代にタイムリープした近代人のような知性を感じました。体制側の人間である父親とは根本的に価値観が合わないのだろうなあ。


「柳生忍法帖」「魔界転生」そして遺作となった「柳生十兵衛死す」は“十兵衛三部作”として、山田風太郎の代表作。


作者は生前から「俺が死んだ後に読まれるのは、十兵衛三部作と忍法帖のいくつかくらいだろうな」と言っていたそうです。


ひょっとしたら“十兵衛三部作”は、現代の作者山田風太郎が江戸に転生して、十兵衛の肉体を借りて存分に遊んでいる気分で書いたのかなあ。


普通の時代劇なら、女が困っていたら、男が”女の代わりに″仇を討つところを、天樹院(千姫)の「女の手で誅を下さねばならぬ。」に「面白うござる」と共感する。江戸時代に、女性に対して意思を持った対等な人間として向き合っている。


虫けらのように扱われ、切られて瀕死の天丸が、動けば死ぬというのに囚われの姉を探して歩いてゆくのを「行かせてやれ。行かねばならぬ理由があるのであろう」というセリフに込められた畏敬の念。


人生のすべてを父親の野望の道具として生きてきたおゆらが、人生で初めて忠義だ掟だ一族の再興だという男の理屈に縛られず信念を持って生きている十兵衛を見たら、惚れるわなあ。


人生の最期に自らを縛る鎖を振り切って、十兵衛の胸に飛び込んで死ぬおゆらを、初めて羨ましく思ったわ。


「俺だけが弔ってやれる女がいる」


十兵衛にとって、千姫、堀家の女たち、そしておゆらは、封建体制のくびきの下で、そのくびきから必死で逃れて自分らしく、人間らしく生きようとした「同志」だったのだろうな。