宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

演技が苦手なジェンヌは努力で芝居巧者になれるか


歌唱力やダンス力には、ある程度客観的な評価基準があります。


演技においては、まず「滑舌」でしょう。映画やドラマでは、表情のアップやカット割りで感情表現を演出できますから、あまり気になりませんが、舞台においては「滑舌が悪い」は観客にとって大きなストレスになるので、これは大事。


では「滑舌以外」で「演技が上手い」の基準って何?


映画・ドラマ制作者が「うまい演技とは何か」について語る興味深い記事がありました。




自然な演技って何だ

「まず演技を自然に見せられた。よく『演技が自然』と表現する人がいますが、それは正しくない。演技は自然なものではないのですから。『自然に見せられる人』がうまいんです」

宝塚では、女性が男性を演じて、『男役演技が自然』というところに持って行く必要がありますね。


劇団の先輩男役や、演出の先生が教える蓄積された「普遍的な男性らしく見せるコツ」が膨大にあるでしょうし、


「いかにも軍人」「いかにも貴族」に見せるのも芸のうち。


私が宝塚を好きなのは、タカラジェンヌのお芝居の「身体性」に惹かれているところがあって。


ハリウッドの映画学校のドキュメントで、医療関係者や刑事、教師の役を演じるために、実際に現場に体験入学に行って、リアル職業人の身のこなしを観察するカリキュラムがあるのを見たことがあります。


「役者が演じている軍人役の身のこなし」と「リアル軍人の身のこなし」ってまた別物なんでしょうね。韓流スターって、軍人役のみならず刑事役での銃の扱いとか、皆兵役経験があるだけあって、日本の俳優さんとはリアリティが段違いですもん。


現役では、真風氏が、「いかにも軍人」「いかにも貴族」な身のこなしをものすごく自然に見せられる方だと思います。


縣も細やかな心理表現は粗削りですが、ダンサーで、新人公演では彩風さんの役を演じ続けてきただけあって、脚で感情を表現するのが上手いと思う。身体への観察眼が凄いんだろうなあ。



そもそも、うまい俳優とは? 


「まず、うまい俳優は2通りあります。『特定の役をやらせると天下一品の人』と『どんな役でも出来てしまう人』です」


「作品条件に溶け込んでいるかどうかが問われますから。だから『作品〇〇での女優〇〇がうまい』という限定的な言い方のほうが正しい。むろん中にはどの作品でも常にうまい女優もいますけれども」


「普遍的な演技の上手さ」というものがある訳ではなくて、ある意味舞台を見ている最中に「この人上手いなあ」と思わせる時点で「自然にみせられる演技」とはちょっと違うよなあ。


どんな役でも85点出せる人と、「愛ちゃんの死」のようなクセの強い特定の役柄ではバズって200点!、でも普通の善人役をやるとどうなんだろうな?な人と。


『若いころの演技とはまったく違う』という俳優はいません。必ず自分の演技を引きずり続けます。その自分の演技を磨き、さらに年輪を加えられるかどうかなんです」


宙組時代の愛月さんは『どんな役でも出来てしまう人』に必死でなろうした『特定の役をやらせると天下一品の人』だったんだろうな。


あんまりクセが強いと宝塚の路線スターとしてどうなの?という面もあり、しかしそのスターが退団後に、宝塚の歴史で語り継がれるのは「あの人何をやっても上手かったね」より「△△さんの〇〇役、凄かったよね。」かもしれず。


演技が苦手なジェンヌは鍛えたら演技巧者になれるのか

監督や演出家は俳優から最高の演技を引き出そうとする存在であるのですが、下手な俳優をどう鍛えても演技力などというものは、せいぜい1、2割程度しかアップしません。


その意味では、キャスティングの段階で演出などというものは8割方決まってしまいます」

きっつ。映画やドラマの世界でも、ベストキャスティングに勝る名演は難しいのですね。


柴田先生が現役の頃の執筆姿勢は、「文学的なお話を書こう」より「スターを一番魅力的にみせられる人物像を作ろう」としていて、その結果キャラが命を得て生きて動いて、ストーリーを紡いでいったんだろうなあ、と思います。


結局、宝塚の舞台を見ていて面白いのは、ストーリーの細かい辻褄より、当たり役を得てイキイキ演じている役者の魅力なのでしょう。


劇団よ、「礼真琴なら何でもできる」って礼真琴の上手さに甘えすぎでは。「礼真琴ならでは」という宛書なり作品選びを本気で考えてくれ。


「こんなにうまい人なのに、なぜ路線になれないの!」もわかりますが

『うまい役者=スター』というわけではありません。私の考えでは、その役者が出演することで、作品全体の質が向上する俳優が『うまい人』です」


スター(路線)にしてくれない、羽を背負わせてもらえない=評価されていない、というわけでもなく、その人がいてくれることで作品全体の質が向上している、と思える存在って素敵だな、と思います。