宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

『殉情』帆純まひろ版配信視聴感想①


イマドキの高校生どころか、昭和8年の読者にも「ありえねー」話だが・・・


『春琴抄』の原作を再読してから、帆純まひろさん主演の舞台『殉情』の配信を視聴しました。


原作は、文豪 谷崎潤一郎氏による有名な作品です。




しゅんきんしょう【春琴抄】

谷崎潤一郎の小説。1933年6月《中央公論》に発表。作者のいわゆる〈古典回帰の時代〉を代表する傑作の一つ。


大阪道修(どしよう)町の商家の娘春琴は幼くして失明,琴三絃の世界で天才ともてはやされたが,その性質は驕慢で,ために何者かに顔に熱湯を浴びせられて醜く変相する。


春琴の門弟で,女師匠に深い愛情を抱いていた奉公人佐助は,自分の手で針で眼を突き,盲目の身となる。


物語はこの2人の愛の完成を描く。


作者は,このおよそ世にありえぬストーリーに現実感を与えるために工夫を凝らし,みずから〈物語風〉と名づけた新しい話法を開拓している。


再読しての感想は、


川端康成より、谷崎潤一郎のほうがノーベル文学賞を取るべきだったのでは?



(現代の人権感覚から見れば、視覚障害の方についての描写など、時代にそぐわないところもあるので、手放しで称賛できないところもあります)


すごい話ですよ。


感心した点その1 SとMの逆転


奉公人にサディスティックに当たり散らすヒロイン春琴と、ひたすら献身的に尽くす佐助。


佐助は「主人 兼 師匠 への、世話・介護することへの愛情に依存」


春琴は「奉公人 兼 弟子 への、琴・三味線の指導という名の支配に依存」



最初は春琴がドSで、佐助がドMに見える。



春琴は「佐助に世話されずにおれない自分」


佐助は「春琴は、私にしかお世話できない」


お互いに、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出す。




春琴は「佐助に世話されずにおれない自分」となってゆき、


いつしか春琴が意図せず隠れドMで、佐助が意図せず隠れドSになっているという、構造の反転がおみごと。


感心した点 その2 およそ世にありえぬストーリーに現実感を与えるために工夫



ちかごろ私の手に入れたものに「鵙屋春琴伝」という小冊子があり、これが私の春琴女を知るに至った端緒であるが、この書は生漉の和紙へ四号活字で印刷した三十枚ほどのもので、


察するところ、春琴女の三回忌に弟子の検校が誰かに頼んで師の伝記を編ませ配り物にでもしたのであろう。


されば内容は文章体で綴ってあり、検校のことも三人称で書いてあるけれども、恐らく材料は検校が授けたものに違いなく、この書のほんとうの著者は検校その人であると見て差支えあるまい。



『春琴抄』とは、「令和の現代と明治とでは、価値観がちがうからねえ」どころで済まない、


昭和8年の読者にも、「そんな話、あるか!」と突っ込む方は大勢いた話だと思います。


春琴と佐助の物語は、作者の完全なフィクションなのですが、谷崎潤一郎はこのおよそ世にありえぬストーリーに現実感を与えるために、さまざまな仕掛けをほどこしています。


原作では、物語の舞台である明治から遥かに時間がたった昭和8年、語り手である「私」が、


「鵙屋春琴伝」という佐助が口述筆記させたらしい小冊子と、経年変化でおぼろげになった春琴の写真を手に入れ、


大坂市内下寺町の浄土宗の某寺にある、春琴と佐助の墓参りに来るという設定になっています。




お墓の没年や戒名など、詳細なディテールの描写、


今日伝わっている春琴女が三十七歳の時の写真というものを見るのに、輪郭の整った瓜実顔に、一つ一つ可愛い指で摘つまみ上げたような小柄な今にも消えてなくなりそうな柔らかな目鼻がついている。


何分にも明治初年か慶応頃の撮影であるからところどころに星が出たりして遠い昔の記憶のごとくうすれているのでそのためにそう見えるのでもあろうが、


その朦朧とした写真では大阪の富裕な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという個性の閃きがなく印象の稀薄な感じがする。


春琴の容貌を写した写真についての「遠い昔の記憶のごとく薄れた、うつくしいけれども、これという個性の閃きが無く印象の希薄な感じ」という描写。



原作では、「鵙屋春琴伝」では、佐助が亡くなった春琴のことを弁天様のごとく、観音菩薩のごとく崇拝しているのを、


物語の語り手である「私」は


「そんなものかねえ。佐助はん、だいぶ話を美化しているでしょ」


突っ込みながら、ストーリーを語っていきます。



これらの工夫のおかげで、読者は


「なんだこのとんでもないストーリは!」


でなく


「こんなものすごい実話があったのか!当事者たちの心理はどうだったのか?」


と、実録ノンフィクションを読むような興味で読み進むことができます。


出版当時は、これらの工夫のおかげで、この話が実話だと勘違いした読者から出版社に


「春琴と佐助のお墓はどこですか?」
「春琴の写真を見せてください」
「「鵙屋春琴伝」の原本を見たい」


などの問い合わせが殺到したそうです。



この工夫の名残が、作中に登場する現代のYouTuberのカップルと郷土史家の先生なのだと思いますが・・・


うーん。物語本編中で、鵙屋の丁稚や女中たちが、春琴と佐助の愛へのツッコミ役として機能しているので、現代パートのカップルたちの存在意義が中途半端になってしまったかなあ。


かといって、原作が長編でも無いので、ストーリーテラーが必要というわけでもない。


(むしろ芸者の嫉妬エピソードと利太郎の横恋慕エピソードをだいぶ水増して、ストーリーを2時間にしている。90分でも収まる話だと思う)


現代パートは、幕開きとエンディングだけにしたほうが、芝居としてすっきりしたとおもうのですが、出番の都合もあったのかなあ。


現代パートを出すなら出すで、春琴と佐助を実在の人物として扱って、YouTubeで


”「春琴抄」フィクションかと思ったら実話だった!?”


みたいな番組を作る過程をちゃんと見せたほうがよかったかも。




長くなってきたので、次回に続きます。