宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

なんでそんなに貧しいの 壬生義士伝感想 石田先生、ちょっとこちらへ

スカステで「壬生義士伝」を拝見しました。


・・・ねえ、南部藩ってなんでそんなに貧しいの?


大正生まれの祖母は「昔は讃岐は干ばつで米が不作で、わずかな米を年貢に取られてしょうがないからうどんを食べていた」と言っていたので、


米が無いなら、うどんを食べればいいじゃない


と思ったのですが、調べてみるとそう単純な話でもなかったようです。




雪組公演『壬生義士伝』『Music Revolution!』初日舞台映像(ロング)


「経済小説としての壬生義士伝」

南部藩がなんであんなに貧しいのか、それは稲の生育に不向きな冷涼な気候なのに、農民に無理やり年貢米の為、稲を植えさせては冷害で全滅、を繰り返したから。(冬は豪雪で麦も作物も作れないので、保険が無い)


幕府の米本位制は破綻していて、それを改善できないまま隔年で収穫ゼロ、餓死者を出し続けた、天災というより人災でした。


藩にも金はなく、貫一郎は剣術指導の役を得ながらも給金は現在なら年収100万以下のワーキングプア。バイトもままならず、妻子を養えなくて脱藩しました。


「義士」とは

貫一郎は武士であり、脱走兵が軍隊におめおめ復帰できるわけはないのは承知のはず。


蔵屋敷に「助けを求めて」来たのではないでしょう。戦場で死んだら所持金は剥ぎ取られ、屍を拾うものなし。


藩屋敷で切腹できるとは人として死ねること。遺族に遺品や最期の様子を伝えてくれる可能性があると思ったのかもしれません。


辞書によると


義士:人間としての正しい道を堅く守り行う男子。義人。 とあります。


次郎右衛門は南部藩のなけなしの年貢米をかき集めた大阪の蔵屋敷で、握り飯を握りながら


貫一郎は剣術の才能で、人斬りしてでも妻子を食わせた。
自分は藩の勘定役として、民を食わせられない政治体制を変えられなかった。


貫一郎と自分とどっちが「義」だ、との思いに揺れ、その思いを遺族への手紙に綴っております。


「東北を救ったもの」

東北の飢饉を救ったのは、冷害に強い稲の普及でした。品種改良に成功した研究者の名は「吉村貫一郎」父貫一郎が一度も顔を見ることがなかった末っ子です。しずはもう夫に会えないことを覚悟して、子に同じ名をつけていたのです。


小説のラストは、子貫一郎が黄金色の稲穂がそよぐ故郷に帰郷し、次郎右衛門からの手紙を見つけて終わっています。


ねえ、石田せんせ。


宝塚版のラスト、このあたりのことが鹿鳴館ズにさらっと語られて終わっているのがもったいない。


もうちょっと演出を工夫したら、ナウシカのラストみたいな感動シーンになったかもしれないのになあと妄想しつつ、おもさげながんす。