宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

礼真琴が、隻眼で豪壮で強勇○○な柳生十兵衛とな!



宝塚剣豪秘録

『柳生忍法帖』

原作/山田 風太郎「柳生忍法帖」(KADOKAWA 角川文庫刊)

脚本・演出/大野 拓史


山田風太郎の小説「柳生忍法帖」。「魔界転生」「柳生十兵衛死す」と共に今なお多くのファンから支持される「十兵衛三部作」の一つであり、実在の人物や史実にフィクションを織り交ぜ壮大なスケールで描かれた傑作時代小説の初の舞台化に、宝塚歌劇が挑みます。


寛永年間。暴政を敷く会津藩主・加藤明成を見限り出奔した家老・堀主水の一族に、復讐の手が迫る。明成は堀主水を断罪するだけでは飽き足らず、幕府公認の縁切寺として知られる尼寺・東慶寺に逃げ込んだ堀一族の女たちをも武力をもって攫おうとする。


しかしそれは、男たちの都合に振り回される生涯を送り、女たちの最後の避難場所として東慶寺を庇護してきた天樹院(豊臣秀頼の妻であった千姫)には許しがたい事であった。


是が非でも女の手で誅を下さねばならぬ、そう心定めた天樹院は、敵討ちを誓う堀一族の女たちに指南役をつけたいと、兵法者に人脈を持つ沢庵和尚に依頼する。


後日、東慶寺には、沢庵に案内され秘かに足を踏み入れる一人の武芸者の姿があった。将軍家剣術指南役・柳生宗矩の嫡男ながら堅苦しい城勤めを嫌い、剣術修行の旅に明け暮れる隻眼の天才剣士、柳生十兵衛その人である。


女たちを託された十兵衛は、強敵・七本槍との死闘を繰り広げながら、会津へと向かう。待ち受けるのは、明成を篭絡し藩を牛耳ろうと目論む謎の男・芦名銅伯と、銅伯の娘で明成の側室ゆら。果たして十兵衛と女たちは、凶悪な敵を打ち倒すことが出来るのか…。


惚れ惚れするほどの格好良さで人々の心を捉える、柳生十兵衛の生き様を描く物語。



くはー、礼さんが柳生十兵衛!


柳生十兵衛 やぎゅう-じゅうべえ

1607‐50(慶長12‐慶安3)

江戸時代初期の剣豪。柳生新陰流,将軍家師範。柳生宗矩(むねのり)の嫡男で,はじめ七郎,のちに十兵衛三厳(みつよし)という。


剣の実力は父をしのぎ,当代随一の剣豪といわれた。1619年(元和5)徳川家光の小姓として出仕したが,26年(寛永3),理由は明らかでないが家光の勘気により致仕した。その後38年再出仕するまで,大和柳生の道場で家法新陰流のくふう研究と門弟の指導に日を送ったようである。


兵法の思索研究の成果は《月之抄》(1642)として残る。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版


柳生十兵衛って言ったら、



YAGYU JUBEI: SAMURAI SHODOWN / SAMURAI SPIRITS - Character Trailer (Japan / Asia)

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【乙女剣武蔵】サンプルボイス  柳生十兵衛 声・松岡禎丞


紅子:まあ、だいたい、どの媒体でも、隻眼で、いかにも剣豪なガタイよねえ。


管理人:史料によると性格は、梟雄(残忍で強く荒々しいこと) 柳生家の文章には「強勇絶倫」・・・


紅子:ヅカ版でその単語やばくね?


管理人:実在した人物なのは間違いないのだけれど、”1619年(元和5)徳川家光の小姓として出仕したが,26年(寛永3),理由は明らかでないが家光の勘気により致仕した”


その理由がいまだ謎なのよ。天下の将軍様を怒らせたわりには、本人も父親もお咎めがあったわけでもなく。


剣道有段者の配偶者の説では、「家光との衆道(BL)関係がこじれたんじゃね?」だってさ。


で、その後10年以上空白の期間があって、後の時代にその隙間を埋めるため、今でゆう同人オタが「実は幕府の隠密(スパイ)だった」からの「実は忍者だった」と設定がどんどん増え、山田 風太郎の「柳生忍法帖」に至り、現代では女子高生に転生し、モンストでは獣神になっちゃった、と。


紅子:直近で、珠城さんが宮本武蔵をやっているし・・・


管理人:そこで趣向として「女の手で誅を下さねばならぬ」ですよ。


なんとうどん県は丸亀藩に、藩公認の決闘で、女性が父の仇を討った事例があるのよ。


女性側は30歳そこそこ、仇はもうだいぶおじいさんだったらしいけどね。


紅子:さすが羽立光来の地元ね・・・


管理人:大野先生の、イスパニアのサムライとか、女の仇討ちとか、歴オタらしい目の付けどころは好きなのよねー。


丸亀城主京極備中守の家中弓組足軽尼崎幸右衛門の娘里也は幼少のころ父が殺された事を聞き,長じて江戸に出て武術をきわめ江戸目黒において親の仇討ちをりっぱに果たした。宝永2年(1705)のことであった。女性の仇討ちとしては珍らしいことだったので、当時江戸市中はもとより全国にも知れ渡った。