宝塚 ライビュ専科の地方民のブログ

宝塚を「好き」という気持ちを因数分解してみたい、という思いで綴っています

『ダル・レークの恋』配信感想 サリーを着た歌舞伎

※思いっきりネタバレ感想です。


1959年に春日野八千代演出・主演により初演された「ダル・レークの恋」


管理人は1997年の麻路さき主演バージョンは映像で、2007年に瀬奈じゅん主演の全国ツアー公演版は、香川県民ホールで観劇したことがあるのですが、


毎回、前半1時間の印象は鮮明なのだけれど、なぜかペペルが出てきてからの展開は忘れているので、新鮮な気持ちで鑑賞できました(笑)


ミニアチュール(細密画)のような心理劇

ほんと、月城さんも、海乃さんも、インドのミニアチュールのように美しい。


ルネサンス以降のこってりした油絵の西洋絵画も好きですが、個人的には、中世ヨーロッパの写本やインドの細密画(ミニアチュール)の、小さな画面(A4~A6くらい)に精緻に書き込まれた、清廉で典雅な女性像が大好きでして。


インドの細密画を訪ねて〈上〉―細密画が描かれた王国の宮殿・遺跡と美術館探訪
インドの細密画を訪ねて〈上〉―細密画が描かれた王国の宮殿・遺跡と美術館探訪
新風舎
インドの細密画を訪ねて〈下〉―細密画が描かれた王国と細密画の発展の歴史
インドの細密画を訪ねて〈下〉―細密画が描かれた王国と細密画の発展の歴史
新風舎


で、このお話のあらすじはというと、マハ・ラジア一族の娘と、素性のわからない平民あがりの騎兵大尉の男の、避暑地でのひと夏の恋。


でも、女には、デリーの王宮での女官長という輝かしい未来が約束されている。身分違いの恋はお決まりの展開で、


心ならず?の「愛想つかし」からの、「○○と見せかけて、実は!」の展開。


・・・サリーを着た歌舞伎だな。



シネマ歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』(かごつるべさとのえいざめ)予告編



縁切り物 ここに注目


この演目は『伊勢音頭』や『御所五郎蔵』『縮屋新助』と並ぶ「縁切り物」の代表作です。


「縁切り物」の展開にはおおよそ定型があり、


まずは「出会い(見染め)」

そして「愛想尽かし(縁切り)」、

最後はお決まりの「仕返し(殺し)」となります。


多くの場合、愛想尽かしは決して女の本心ではなく、事情が絡んで板挟みとなり止むに止まれず、表向き繕っていずれ本心を明かそうとしているところ、男の方は真に受けて逆上し殺しに走り、心がすれ違ったまま惨劇を迎える、こういったところが概ねのお決まりです。

「来るんですか、来ないんですか」

1997年版の映像を見た時は、まだ子供だったので、ダル湖のハウスボートでのシーンの意味はよくわからなかったのですが(笑)大人になって再見すると、


カマラ:「人を殺したことはありますか」
ラッチマン:「女の魂を奪ったことはあります」


・・・心理的な「殺し」、まるで心中に向かう男女のようなセリフだなあ・・・



「ダル・レークの恋」は、サリーを着た歌舞伎、というか、けっこう前近代な心理劇なんですよね。


なぜラッチマンが、身分を偽っていたのか。


国際ロマンス詐欺犯を疑われた際、とっさに「ええ、私がその極悪人です」と名乗りだすのか。


劇中では明確な説明が無い。


すごいよな。現代人の感覚では、「なぜ偽るのか」の心理が一番大切なはずなのに。このへんが歌舞伎っぽい。

多分 “人間の捉え方”が昔と今では違っているんですよね。


現代人にとって人間は「Aという精神が、ある事象によってBに変化し、それが次の事象を生んでいく」というふうに精神は変化しながらも続いていくと捉えています。


でも前近代の人たちにとっては、一人の人間が「ある時は非常にいい人間だけど、ある時はどうしようもない業を背負っている」こともありうると考えていたのかもしれません。


「人間は一個の精神をずっと生きているわけではなく、複数の精神の集合体として存在する」と捉えていたのでしょう。



あまり理詰めで考えると、かえって捉えどころのないラッチマンの心理の綾を、月城さんは理屈ではなく、


その瞬間の心の動きを、まるで微分するように細やかに魅せていくのが素敵でした。